その角を曲がって〜ゾロ目の1にご挨拶〜

新年、明けましておめでとうございます。年が明けて、一旦いろいろ動き出してしまうと、慌ただしさが蘇ってくるのに大して時間はかからないわけでして、ご挨拶をしそびれていました。改めて、2025年も宜しくお願いいたします。

好むと好まざるとにかかわらず、年齢を重ねれば、身体の状態だけでなく、考えていること、感じることも変わってゆくもので。その中で、何を守り、何を手放すか、何を許し、何を許さないかを問われる昨年であったと感じています。

さすがに年喰ったかな、と思わないでもありませんが、そのことに意識が向いてきたのも変化の中に含まれるのでしょうか。きっとそうだと思っていて、そのこともあって、この年末年始は、ひたすら「捨てる」毎日でした。自宅でも、一宮の実家でも、これまで触れてきた主に紙の資料を整理しては縛り、縛っては捨て、おかげでかなり身軽になりました。演劇ほかのちらし、かつて読んだ本、CD、パソコン系のガジェット、思えば手足をいっぱいに広げていろいろなものに触れてきました。紙資料だけで20〜30キロは捨てたのではないかと思います。

年相応に小さくまとまるのではなく、一旦リセットして、照準をより精緻に合わせたい。

その角を曲がって、というフレーズが浮かびます。見た目変わらない動きかもしれませんが、新たな歩みを始めたい。命のかぎり。

年始早々から地元の先輩、演出家の齋藤敏明さんの訃報に接して、その思いは余計に強くなりました。読経のない、不思議なお別れの場にて、以上のようなことを考えていました。

1がゾロ目の休日の朝、ひとりの読み手、ひとりの作り手としてのニシムラを宜しくお願い申し上げます。今年のAfroWagenとしての予定は別のエントリでお知らせします。なんやかんや新しいこともありますので。

「ikki星☆」@内幸町ホール終了

昨夜(104日)は、先月に行われた「ikki星☆が挑む 朗読 太宰治の世界」の振り返りZoomでした。公演そのものが終了して、いやそのかなり前からモヤモヤしていたものの正体が、今朝起きる前のベッドの中で「!」という感じで気付いたので、ここに書き残しておきたいと思います。

9月22日(日) IKKI星☆が挑む「朗読 太宰治の世界」(ミニ講演:太田治子氏)

 

なお、いろいろハレーションが起きることが予想されるので、SNSには流しませんし、おそらくこの欄を見てらっしゃる方はごく少数である(断言)分、しっかり残しておきます。

これは一部Facebookでも触れましたが、まず他の出演者の皆さんと、スタンスがまるで違うこと、それこそ、よく最後まで喧嘩別れせずにできたなあ、ということを改めて思いました。朗読で何を表現するか、という根本の部分において、良いとか悪いとかではなく違いがある。

自己を、つまり自分自身の感情や感覚を表に出す「表現」なのか、

作品世界や人物・事物そのものの描写に徹し、自己を隠す「表現」なのか

という違いです。

私はこれまで関わってきた演劇の世界でも、その延長線上にもある朗読においても基本的には後者であるべきと考える者です。役者の素を曝け出してはいけない、たとえ姿かっこうは変わらずとも、薄皮1枚、そこにしかない幻を信じなさい、と教えられてきたものでした。

だから朗読に移行する前、ナレーションを学んだ現場で戸谷(美恵子)先生に「あんたは声ばっかり大きくてブレーキがないの!」とよく叱られました。今から思えば、戯曲やセリフが醸す世界に没入して読み手が見えない、自分がどう聞かれているかを意識しなさい、ということだったのだと思います。

ただし、そうは言っても、実際の朗読や舞台はこの2つのうちのどちらかしか存在しないというわけでもなく、常に混在しその比率は時と場合によって変動するものだ、とも考えています。多分その認識は、これまで自分が修めてきた技術的な面が大きいと思いますし、意識的かどうかを問わず、自己の感覚・感情を作品と直結させて馬力を出す、という局面もあるはずで、実際これまでもありました。

多分、私以外の方々は、そのあたりの揺れ動きとはほぼ無縁で、まずはご自分がどう前者の意味で「表現」するかが先に立つ、もっとあけすけに言ってしまえば、作品や作者の世界観をダシにして自己を表出する、と言っても良いかもしれません。そこが、書かれてある小説の言葉との距離感を探り探りしていた稽古での私に、画面越しに苛立たれていた理由だったのかもしれません。

繰り返しになりますが、それが悪いとは言いません。

ただ今後、継続的にご一緒できるかと訊かれれば、うーん、このままならば限度があるかなという感想を、振り返りのZoomでのやりとりを聴きながら抱いていたのだな、と未明のベッドで気付いたのでした。

実際の朗読、ニシムラは狸にしか見えなかった、というご感想と、何言ってるか分からなかったというご感想の両方がありました。当然のことだと思いますし、改めて、テキストを読み込み、掘り下げ、それを声に出すことでどこまで密度を濃く描き出すことができるかに挑まねばならない、と感じた今回の内幸町ホールでした。

以上で報告を終わります。

本日東京「IKKI星☆」の太宰治です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今月2度めの3連休、初日から東京に来ています。当日報欄でもたびたび触れている、NPO日本朗読文化協会が主催した「朗読指導者養成講座」に参加したのが2021年秋から翌年の夏にかけて。そこが「朗読四都MONOがたり」開催のきっかけにもなったのですが、今回もこれはより大人数での企画であり、内幸町ホールという会場の規模も違う、いわば「大ごと」なのですが、ここまでZoomでの打ち合わせのみで進んできたので、なかなか大変でした。

詳細は協会のページにも掲載されていますのでこちらからどうぞ。

9月22日(日) IKKI星☆が挑む「朗読 太宰治の世界」(ミニ講演:太田治子氏)

しかし昨夜(9月22日)、対面での最初で最後の通し稽古を終えて、少しだけ不安は解消されました。もちろん本番でどんな不測の事態が起こるのか、それはわかりませんが、まー何とかなるでしょ?くらいの気持ちで行ってみたいと思います。

チケットは相当早くに完売となりました。それこそ私がSNSでお知らせをする暇もないくらいで、大変ありがたい話です。首都圏は朗読への関心がやはり高いのだなと実感しているところです。

今度はちゃんと報告いたします。座談会の記事を上げてないことに今気づいたので…。

「朗読座談会」終了ご報告

(一部Facebookと内容が重なる箇所があります)

参加する前にエントリを残しておいた「朗読座談会」、終わりました。ご参加の皆様、ありがとうございました。有料での配信はこの後2月20日からなので、お申し込みの方でそちらを見られる方には少しネタバレになってしまうかもしれませんが、自分の感想主体で当日の様子をご報告します。
新幹線で上京の途上の間、なんとなく「口火を切るとすれば自分だろうな」と思っていました。パネラーとしての出場者中、男性は私含めて2人、そして多分、年齢も若いほう。ということは…という考えと、同時に、話すとすれば「私(の朗読)はどうあるべきか、どうしたいか。そういう自己規定の話」だと思っていましたので。そして、その意図を感づかれていたのかどうかはわかりませんが、進行側にいらした加賀美幸子さんから最初に指名されてしまい、自分の目論見通りに口火を切ることになったのでした。
そこでまず私が名前を出したのは、徳川夢声でした。
いま私は岐阜・柳ケ瀬で吉川英治作品を読んでいますが、夢声翁の朗読といえばラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)や地元の東海ラジオで放送された「宮本武蔵」であり、20年以上も前にラジオから流れたそれを耳にした時の衝撃をそのまま伝えたつもりです。
あるいは、その感じがその後の進行をスムーズにしたのかもしれません。「上手い朗読って、何?」というタイトルに対して、他の参加者の皆さんも思い思いに話をし始め、「えっマジそれ言っちゃっていいの?個人特定されない?」という話題を出される方(これはさすがに書けない)もいたり、気が付けば盛り上がりの中で150分近くを過ごすことになりました。
後半部分では、2007年に「三十代の潜水生活」という名前で2人の朗読イベントを始めた時に、企画書か当日のパンフレットに残した言葉も思い出したので、それを申し上げたりしました。これは今でも変わらないつもりですが、朗読は自分ひとりが読むものではないし、「わたし読む人/あなた聴く人」という区分けは無意味だと思っています。私が私の音声を用いて申し上げた言葉を耳で聞き取ることで、あなたも「読む人」なんだと思っている、というようなことも付け加えました。
いずれにしても、とても意味のある、得難い経験になったと感じています。さて、これを基に次はどう動くかということが問われます。頑張ります。
写真は終了後の集合写真。そして会場(東京ウイメンズプラザ)の隣が国連大学で、ちょうどマルシェが開かれていたのでタコライスを。

本日「朗読座談会」@東京・青山

23時をかなり回ってから書き始めて、きっと打っているうちに日付が変わるだろうな、と思っていたらその通りになりました。今日はこの後寝て起きて東京に向かいます。
2021〜22年にかけてお世話になった、日本朗読文化協会が主催する「朗読座談会」に、一般の参加者のひとりとして加わることになりました。既に会場観覧も動画配信も申込みを締め切っているので、残念ながらこれからご案内をすることはできないのですが、参加する前に、私自身の思うところを書き残しておこうと思います。
「上手い朗読って、何?」というのが当イベントのパンチラインですが、ひとことで申せば
「そりゃいろいろでしょうよ」
になるかと思います。身も蓋もない話ですが。発声と言葉の調音に重点を置けばアナウンサー、ナレーターと呼ばれる方々が最も得意とするところでしょうし、劇的表現であれば、俳優声優、あるいは伝統的な音声芸術、文楽常磐津清元落語講談浪曲といったあたりを生業とされる先生方が自家薬籠とされるところでしょう。
そのどちらでもない、私はどうあるべきか、どうしたいか。
そういう自己規定のお話だと思うのです。
こう読むのがいい悪い、こんな読み手のここが上手・下手などという狭い了見の話ではなく、これまでの来し方と今後の私の歩もうとする方向をお話しできる機会であれは有り難いと思います。
また終わりましたら報告をいたします。

閑居しないこと(2024年に)

おめでとうなんて言えなくなってしまった正月でしたね。ニュースを今さら繰り返すことはしませんし、状況は刻一刻と変わりつつあるので。

そんな中でも、被災していない、事故にも巻き込まれてない中でも、やはり考えることは同じようなもので、前半は実家にいたので余計にそんな感じが。そこで結論を得るときにふっ、と浮かんだ言葉が、

「小人閑居して不善を為す」

でした。だいたいの意味として、人間暇にしていると碌なことをしないから気をつけろ、という辺りでしょうが、「閑居」の種類はリアルな人間関係だけではないよな、とコンピューターの画面を覗いていると強く思います。孤独と仲間の間、仲間と社会の間、そして私と社会との間で、どのような距離感と精神で漂うか、その上で表現していきたい。

そんな気持ちを言い当てているような、朔太郎の詩の末尾近いところを抜粋します。

群衆の中に居て(抜粋)萩原朔太郎

…げに都会の生活の自由さは、群集の中に居る自由さである。
群集は一人一人の単位であつて、しかも全体としての
綜合(そうごう)した意志をもつてる。
だれも私の生活に交渉せず、私の自由を束縛しない。
しかも全体の動く意志の中で、私がまた物を考へ、
為(な)し、味(あじわ)ひ、人人と共に楽しんで居る。

心のいたく疲れた人、
思い悩みに苦しむ人、
わけても孤独を寂しむ人、
孤独を愛する人によつて、
群集こそは心の家郷、
愛と慰安の住家である。

ボードレエルと共に、私もまた一つのさびしい歌を唄はう。

都会は私の恋人。
群集は私の家郷。

ああ何処までも、何処までも、都会の空を徘徊(はいかい)しながら、
群集と共に歩いて行かう。浪の彼方(かなた)は地平に消える、
群集の中を流れて行かう。

今年もよろしくお願いいたします。今年の予定は改めて投稿します。

「朗読四都MONOがたり2023」終了

本番終わって、あれやこれや済ませていたら時間がかかってしまい、久しぶりの夜行高速バスで帰名して1日働いて寝て起きて、未明にこれを書き始めました。10日14日〜15日の、シブヤ大学での朗読ワークショップを含めた「朗読四都MONOがたり2023」、つつがなく終えることができました。ご来場の皆様、開催にご支援、ご協力をいただきました皆様、改めて深く御礼申し上げます。ありがとうございました。

各種SNSにも既に書いたり書こうとしていたりしますが、あまり目立たないこちらには、私が今作の制作に携わるに当たって、本当にお世話になった2人のことを記録しておきます。

前回に続き、ちらしのデザインをお願いしました、三重県津市の「橋本デザイン室」の橋本純司さん。出会ってからもう20年近く、宣伝美術をお願いする関係だけでも14,5年の中で、一貫して私の考えていることをビジュアルに落とし込んでいただける貴重な存在です。言葉が過ぎるかもしれませんが、一般的な朗読会のちらしは、会の大小を問わず、「中村仲蔵」の台詞にも出てくる「工夫が足りない」感を帯びたものが大多数です。つまりダサいものしかない。「朗読会拓使」から続く流れの中で、何としてもそれだけはしたくありませんでしたので、今回の反応は幸いなものとなりました。そんな橋本さんは今度、ご自身が戯曲と演出されるユニット「コケムスカヲリ」の上演があります。「中島さんを最近見ない」

http://kokemusukaori.com/stage/nakajimasan/

11月末は三重県伊勢市、12月16日には津市で開催される松原豊さんの写真展の関連企画としての上演、ぜひチェックしてみて下さい。私は伊勢の方に行くと思います。

https://gallery0369.jp/exhibition/2023matsubarayutaka-murakio/

そして、今回の告知記事を書いて下さった、東京新聞(中日新聞東京支社)社会部の小川慎一さんとも、もう10年以上のお付き合いとなりました。もともとTwitterでは繋がっていたところに、岐阜(支社)に赴任されることになり、そのころ通算50回そこそこだった「三十代の潜水生活」を取材していただきました。今回、10月5日付朝刊の都心版に掲載された記事を読みながら、その時のことをまた思い出しました。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/281769

そういえば、東京に転勤で戻られるとき、柳ヶ瀬で最後に飲んだ店は、今年5月に開業10年を迎え、記念のイベント「演劇の日」にお邪魔した神室町商店Heatでした。やはり繋がるんですね、何ごとも。もちろん、それは分かっていたので、朗読の際に身につけたネクタイは、私を岐阜とつないでくれたきっかけとなった方、元・岐阜市文化センター副館長の故・本田秀勝さんの形見分けでいただいたものだということも申し添えておきます。

4者4様の朗読、いい意味でも悪い意味でもバラバラでまとまりがなくて、そもそも私を含め朗読家の特性として自分のことが最初に来る(笑)という関係上、まとめるのに苦労もありましたが、何とか終えることができると、やはりそれが喜びに変わったのは間違いないです。その意味で旅をしていたのは、お聴きいただいた客席の方々とともに、舞台上の私たちもだったかもしれません。

来年は名古屋らしいです。今から準備しないと、と思うとおちおち寝てもいられませんが。

15年目へ。

 

※Facebookからの一部転載を含みます※
本日(9月23日)は岐阜・柳ヶ瀬商店街のいしぐれ珈琲にて「朗読濃尾(ノーヴィ)」通算第155回でした。今回は、今日・明日と開催中の恐竜体感イベント「柳ヶ瀬ジュラシックアーケード」に協賛して、太宰治の「鴎(かもめ)」の朗読でした。思えば昨年も中谷宇吉郎先生の随筆を読みましたが。
じゃあなんで今回は太宰?と思われるでしょうね。そっちじゃなくて作品のタイトルに理由があります。

 

約6600万年前、巨大な隕石が落ちてきて生物の大量絶滅を引き起こしたときに、鳥類以外の恐竜はすべて地球上から絶滅した、というのが定説です。ただし、それには例外がありました。地上で生活していたと思われるいくつかの鳥の種は天変地異を凌ぎ、親類の恐竜たちが次々と死に絶えていくのを尻目に、あっという間に勢力を拡大していきました。
「窓辺でさえずっているかわいらしい小鳥たちは、この地球上に現存している唯一の恐竜たちです」と述べる研究者の存在を、↓のサイトで知りました。

 

そうか鳥は恐竜なのか!じゃあそのあたりで作品探すか……と決めてはみたものの、結局は手近な太宰作品にしたのは、「私は唖(おし)の鴎だ」と自身を規定しながら、それでもどうにか生き抜こうとしていた、1940年の太宰を、私自身と重ね合わせたように思います。

 

そして、今回をもって、2009(平成21)年夏にスタート以来満14年を迎えることができました。休みなく来ていれば、単純に168回になったはずですが、この間新型コロナの影響だけでなく、災害だったりトラブルだったりで何回か抜けているための155回で、来月からは15年目に入ります。思わず指折り数えました。
ここまで来られたのは勿論、これまでお送りした配信を聞いて下さった方、移転前も移転後の店にお越しいただいた方、そしていうまでもなくプロデューサーの石博さん、今回も立ち会って下さったぽちさんはじめ、岐阜のみなさん、柳ケ瀬商店街の皆さんのお力添えあってのことであり、それなしでは続くことはありませんでした。改めて深く御礼を申し上げたいです。
本当にありがとうございました。
そしてこれからもどうぞよろしくお願いいたします!

 

柳ヶ瀬も大きく変わりつつあります。
かつての店跡地にはグラッスル35が建ち、今はキッチンフクイ2ndがあるあたりが、高島屋南商店街のメインストリートでした。高層マンションが複数林立したことに続き、いよいよ日ノ出町の中心部に残る長崎屋の旧店舗が撤去され、公園的な?広場の造成が始まるとのこと。どんな風景になるんでしょうね。いずれにせよ、未来に向かって進む柳ヶ瀬にひとりの読み手として関わりたいという気持ちにいささかも変わりありませんし、その心境は年月を重ねるうち徐々に明確になってきたように感じます。

 

その意味でも、私は柳ヶ瀬に育てられたのだな、とも考えながら、夜の街並みをパシャパシャ撮りながら帰ってきました。次回は10月28日(土曜日)です。配信はうまく行かなかったので、ちゃんと編集したものを急いでお見せできるようにします。また、リアルでもご来店をお待ちしております。
暑すぎる夏から秋へ、ようやく疲れも抜けて動き出せそうです、と書いているうちに日付が変わり、年齢をひとつ重ねました。48歳、年男のニシムラもどうぞよろしくお願い申し上げます。

準備と屈伸—「朗読バトルゲーム」終了

週の真ん中の祝日、ようやく落ち着いて振り返ります。
もう先週、2月16日(木)は、「朗読バトルゲーム」の5thシーズン決勝大会に出てきました。まだアーカイブがご覧になれますので、有料ですがよろしければどうぞ。私を含め、6名が出ています。

https://twitcasting.tv/voicevoice0701/shopcart/214609

優勝は佳穂さん、準優勝は土屋佐知子さんでした。おめでとうございました。私は選外でした。主催者から「順位が知りたい場合は個別にお問い合わせを」というアナウンスがありましたが、遠慮しておきました。

前にも記したような気がしますが、行きがかり上参加していた「競技朗読」からはこれで引退です。個別個別の場でいただいた栄誉は栄誉として、これからは新たな作品の「発掘」に力を注いでいきます。

これは昨年受講した「朗読指導者養成講座」で立てた方針の通りです。

とはいえ、誰かと「読むこと」を競うのは芸を磨く上で絶対とは言わずとも、とても重要な過程だと思いますし、初心者の方も意思がおありであればどんどん挑戦されるべきです。自分も高校時代の放送コンテストを皮切りに、青空文庫、跡見、文化協会と何回となく受けたり出たりもし、褒められたり少ないながらも貶されたり、そもそも落ちたり(これは多数)を繰り返し、その度、さまざまな方と現在まで続く得難い関係が結ばれました。

ただそれらはいずれも、他人の評価に自らをさらすという意味の行為であり、それを原動力として自らの読みを進めるという側面が、徐々に強くなってきた気がしました。

そうではなくて、内在する自らの熱をもっと煽って煽って、ちょうど昨夜大須演芸場で「扇橋報告」という、入船亭扇橋+ゲストに春風亭一之輔という豪華な顔付けの会を聴いたのですが、ちょうど「うどん屋」で一之輔師が語るうどん屋が扇で炭火を奮い立たせるような、そのイメージ。自分で自分の機嫌と調子を取っていきたいと思います。

「そこ」で勝とうが負けようが、重要なのは「その後」であり、朗読してる限りは準備と屈伸が続くのですから、と一丁前なことを申し上げておきます。

上のアーカイブで読んだ「どんぐり」、早速自分のツイキャスでも読みました。
下のリンクの2分50秒あたりから22分手前までです。バトルゲームでは15分という制限がありましたのでスピード重視で読み切りましたが、そこから5分延びるとここまで変わるものなのだな、と自分でも驚きました。こちらもどうぞご贔屓に。

https://twitcasting.tv/afrowagen/movie/759623656

さて、次は明後日、25日の柳ヶ瀬です。仕込みは今夜からです!

始まりは2019年の4月18日でした

確認したら、始まりは2019年の4月18日でした。

2009年の「カラフル3」と連携して以来、お付き合いの続いていた愛知県高等学校演劇連盟(名古屋事務局)主催による「高校生のための演劇教室」という鑑賞行事がありました。

2009 劇団コーヒー牛乳・劇団帰ってきたゑびす(「カラフル3 HighSchool Meeting」として)
2014 ゲキバカ(東京都)「男の60分」
2016 飛ぶ劇場(北九州市)「睡稿・銀河鉄道の夜」
2017 天才劇団バカバッカ(東京都)「DADDY WHO?」
2019 壱劇屋(大阪府)「劇の劇」

遡るとこの5本でお付き合いしたことになるわけです。

そこの2020年の演目として、T-worksの前々回公演「Negotiation」を採択していただき、私はいつもの通り、顧問の先生方とともに行事の運営にあたる高校生の子たちの後方支援にあたるものとスケジュールしていたのでした。

しかし、ここでも憎むべきはコロナウイルスでした。

緊急事態宣言と休校明け直後となった2020年は言うにおよばず、その翌年にも何とか実現の可能性を追求したのですが、何ともならず中止の判断を下したときに、拾う神が現れました。長久手市文化の家の、当時演劇を担当していた方が、事業の中で空きがあるのでうちでどうですか?と声をかけて下さったのです。その結果実現したのが、一昨日まで開催したT-works #5「三文姉妹」でした。

https://togetter.com/li/2063877

  

その長久手での本番が2月4,5日の両日、3ステージをもって無事終了いたしました。ご来場の皆様、誠にありがとうございました。当日のお客様の感想などはこちらでご覧下さい。

気がつけばコロナも第8波。どうにかこうにか、1度も陽性を喰らうことなく過ごすことできたのは、これを何とか、何を成功とするかと言われると難しいけれど、3年越しの関わりとなったこれをきちんとした形で終わらせなければ、という思いはありました。だから、一層悔しいのです。ごく限られたお客様にしか観ていただけなかったことが。

T-works、ぜひまた愛知でお呼びしたい。そして野心溢れる劇作家と演出家の組み合わせて展開されるハズレなしの作品群を、より多くの皆様に知っていただきたい。制作者として、久しぶりに前向きになれるプロジェクトと、それに関わる人々にお目にかかれた気がします。受け入れて下さった長久手市文化の家の職員の皆様にも、深い敬意と感謝を。

こんなイラストをササッと書ける人材がいる劇場なんて、そうはないですよ。

今週末は大阪公演。私も伺うつもりです。