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本日「朗読座談会」@東京・青山

23時をかなり回ってから書き始めて、きっと打っているうちに日付が変わるだろうな、と思っていたらその通りになりました。今日はこの後寝て起きて東京に向かいます。
2021〜22年にかけてお世話になった、日本朗読文化協会が主催する「朗読座談会」に、一般の参加者のひとりとして加わることになりました。既に会場観覧も動画配信も申込みを締め切っているので、残念ながらこれからご案内をすることはできないのですが、参加する前に、私自身の思うところを書き残しておこうと思います。
「上手い朗読って、何?」というのが当イベントのパンチラインですが、ひとことで申せば
「そりゃいろいろでしょうよ」
になるかと思います。身も蓋もない話ですが。発声と言葉の調音に重点を置けばアナウンサー、ナレーターと呼ばれる方々が最も得意とするところでしょうし、劇的表現であれば、俳優声優、あるいは伝統的な音声芸術、文楽常磐津清元落語講談浪曲といったあたりを生業とされる先生方が自家薬籠とされるところでしょう。
そのどちらでもない、私はどうあるべきか、どうしたいか。
そういう自己規定のお話だと思うのです。
こう読むのがいい悪い、こんな読み手のここが上手・下手などという狭い了見の話ではなく、これまでの来し方と今後の私の歩もうとする方向をお話しできる機会であれは有り難いと思います。
また終わりましたら報告をいたします。

「朗読四都MONOがたり2023」終了

本番終わって、あれやこれや済ませていたら時間がかかってしまい、久しぶりの夜行高速バスで帰名して1日働いて寝て起きて、未明にこれを書き始めました。10日14日〜15日の、シブヤ大学での朗読ワークショップを含めた「朗読四都MONOがたり2023」、つつがなく終えることができました。ご来場の皆様、開催にご支援、ご協力をいただきました皆様、改めて深く御礼申し上げます。ありがとうございました。

各種SNSにも既に書いたり書こうとしていたりしますが、あまり目立たないこちらには、私が今作の制作に携わるに当たって、本当にお世話になった2人のことを記録しておきます。

前回に続き、ちらしのデザインをお願いしました、三重県津市の「橋本デザイン室」の橋本純司さん。出会ってからもう20年近く、宣伝美術をお願いする関係だけでも14,5年の中で、一貫して私の考えていることをビジュアルに落とし込んでいただける貴重な存在です。言葉が過ぎるかもしれませんが、一般的な朗読会のちらしは、会の大小を問わず、「中村仲蔵」の台詞にも出てくる「工夫が足りない」感を帯びたものが大多数です。つまりダサいものしかない。「朗読会拓使」から続く流れの中で、何としてもそれだけはしたくありませんでしたので、今回の反応は幸いなものとなりました。そんな橋本さんは今度、ご自身が戯曲と演出されるユニット「コケムスカヲリ」の上演があります。「中島さんを最近見ない」

http://kokemusukaori.com/stage/nakajimasan/

11月末は三重県伊勢市、12月16日には津市で開催される松原豊さんの写真展の関連企画としての上演、ぜひチェックしてみて下さい。私は伊勢の方に行くと思います。

https://gallery0369.jp/exhibition/2023matsubarayutaka-murakio/

そして、今回の告知記事を書いて下さった、東京新聞(中日新聞東京支社)社会部の小川慎一さんとも、もう10年以上のお付き合いとなりました。もともとTwitterでは繋がっていたところに、岐阜(支社)に赴任されることになり、そのころ通算50回そこそこだった「三十代の潜水生活」を取材していただきました。今回、10月5日付朝刊の都心版に掲載された記事を読みながら、その時のことをまた思い出しました。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/281769

そういえば、東京に転勤で戻られるとき、柳ヶ瀬で最後に飲んだ店は、今年5月に開業10年を迎え、記念のイベント「演劇の日」にお邪魔した神室町商店Heatでした。やはり繋がるんですね、何ごとも。もちろん、それは分かっていたので、朗読の際に身につけたネクタイは、私を岐阜とつないでくれたきっかけとなった方、元・岐阜市文化センター副館長の故・本田秀勝さんの形見分けでいただいたものだということも申し添えておきます。

4者4様の朗読、いい意味でも悪い意味でもバラバラでまとまりがなくて、そもそも私を含め朗読家の特性として自分のことが最初に来る(笑)という関係上、まとめるのに苦労もありましたが、何とか終えることができると、やはりそれが喜びに変わったのは間違いないです。その意味で旅をしていたのは、お聴きいただいた客席の方々とともに、舞台上の私たちもだったかもしれません。

来年は名古屋らしいです。今から準備しないと、と思うとおちおち寝てもいられませんが。

今日までそして明日からー養成講座修了

先月末の予告に反し、いきなり総括を書いてしまいました。個別のメモは後から追加してゆくとして、最初にこれまで、自分の目からときどき見えてきた風景を書き残しておきます。

何回読んでも、何本上げても、それらが誰に届いているか感じられない。リアルでやっても、客は集まらないし、そもそも知られているのかも、そして存在を認識してくれている人が果たしているのかどうか、それも分からない。もとより名古屋では、私の朗読に関心を払ってくれる人は大していないけれど、最近その傾向がとみに強くなっていないか……。

以上、もちろん、ここまで書いたことを常に思っていて鬱々としているというわけではなく、体調が悪かったり睡眠が足りなかったり、これまで何らか心身の状態にアンバランスさを持っている時に比較的出やすい、愚痴というか繰り言みたいなものですが、そういうことを抱く時間が、ここのところ増加傾向にあったのも事実だったのです。それが、先月の「隣の芝は光ってみえる2022」というエントリにもつながったのでしょう。たぶん。

曲がりなりにも続けることで保ってきた自らの「軸」みたいなもの。他との比較を意識するあまり、それがグラグラしていたのも、ここ数ヶ月というところ、つまり今日まで受講してきた日本朗読文化協会の「朗読指導者養成講座」と重なる期間でもあったのでした。

で、ようやく本題、そしていきなりの結論です。
この12回の講義は、弱っていた私の朗読の基礎杭の部分に、新たにセメントを流し込むかの如く、確固とした養分を流し込んでくれました。基礎編としてボイスの山崎広子、日本語の構造の考察で野田尚史の両先生、実践編としてNHK関係から渡辺考さんからはドキュメンタリストとしての対象の見つめ方、吉川精一アナウンサーからは番組の司会経験からのレトリックを、そして中西和久さんからは実際の講談台本を用いた台詞回しと抑揚、緩急を。バラバラに見えてそれぞれ朗読表現の根幹を形作るアプローチの方向、考え方の方角を与えてくださったと感じています。

基礎編の最初、そして表現編の最後の2回は回の名誉会長、加賀美幸子さんの講義でした。振り返れば、第1回と今日(8/27)、言われていることに大した違いはたぶんありません。だけど、聞く私、おそらく他の方もそうだったと思うのですが、聞こえ方が違い、分からなかった意味や意図が少しは分かるようになっている。そんな気がするのです。

写真にもありますが、ちょうど今週会場から見える東京タワーを覆うように建設が進む高層ビル(麻布台プロジェクトというらしいです)が、徐々に鉄塔の高さと肩を並べるように、私たちは少しは学んだし進化した。そう信じたいです。

・指導は精神論でなく具体論で
・教えるのも学ぶのも人間力(良識をもって勤勉であること)
・素材をとことん研究し取材すること
・古典に学び、取材を

最後の講義でも触れられたその4つに加えて、「あなたにとって朗読とは?」と問われた答えを並べるならば、

・知られていない、埋もれている作品を「発掘すること」
・技術の向上と継続した活動でそれらを「伝えていくこと」
・育成とその手法の研鑽を通じ「つないでいくこと」
・自らのアンソロジー(選集)を「編み続けること」

の4つを挙げて発表し、私に与えられた時間の締めくくりとしました。

最後に読んだ辰濃和男の随筆と山之口獏の詩、どちらもこれから手がける重要なテキストになりそうです。講座はこれで終わりましたが、日付が変わり今日からまた始まります。タイトルはそういう意味であり、一見変わらない日々であっても、私自身の朗読を変えてゆく、その小さな変化を積み重ねて行きたいと思います。

もう前エントリみたいに「隣の芝が青い」ことに惑ったり慌てたりせず、自分の軸を常に見つめてゆく2022年夏以降でありたい、と思います。

協会の皆様、講師の皆様、そして受講生としてご一緒した皆様、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

隣の芝は光ってみえる2022

ほんと、表題の通り、他人や自分が関わらない公演やプロジェクトの多くが、普段感じる以上に盛り上がり、それが羨ましくみえて仕方がなかった何ヶ月間かを過ごしていた気がします。それはそのまま、SNSの見過ぎであった時間の連続でもあったのだな、とも思います。いや、きっとそうだ。
どこがとはいいませんけれどもね、何とかスラムジャパンとか。
私はこれまで参加したことはありませんが、心情的には応援してきましたし、それは今も変わっていないつもりです。ただ、そこに含まれる多くの要素の中に、私自身がこれまでやってきたことを否定される傾向が見いだされるようになったことが残念でならない、とも感じている者でもあります。

 

何が「お前のやっていることと一緒にするな」だよ、ということです。すべての組織、サークル的なものが持つ宿痾というものから逃れられなかったということなのか。仲のいい方もいないではないので、今までは遠慮していましたが、いつまでも曖昧にしていけない気がするので、踏ん切りをつけてしまうことにしました。

 

そういう風に煽られてしまえば、悲しいことですがこちらもこう応じざるをえない。

 

「あそこで垂れ流されている朗読と呼ばれるものだけが朗読じゃない」と。

 

ということを差し引いても、何してんの?というものも一定含まれている場所を、ばっくりとした見方でしか観れず、語れなくなっていたのは、きっと寒すぎたし、間をおかず暑くなりすぎたからだ、ということのも大きいのだと思います。

徐々にコロナ禍の中から日常の活動を取り戻そうという動きが出てきて、それになかなか追いつく環境が整わない当方と比べて焦りを感じていましたが、ようやくそういう自分もお知らせができます。

約5年ぶりに、東京で朗読します。
昨年の秋から月1回、(特非)日本朗読文化協会(https://rodoku.org/)に会員としてお世話になり、朗読指導者養成講座の末席に加えさせていただきました。まもなく終了する講座の締めくくりのような日程であるのは決して偶然でなく、これまでとこれからの節目になるような大切な時間になるような気がしますし、そう聴く皆さんに感じていただけるような時間をお届けするつもりです。
若き江戸川乱歩が私淑し慕った、愛知県蟹江町出身の医師であり探偵小説家「小酒井不木(こさかい・ふぼく)」。その中でも珍しく笑劇(ファルス)の要素が濃い短編「変な恋」を持って行きます。その他、ご一緒する皆さんそれぞれが、自らのルーツとなる土地にまつわる作品を持ち寄ってお送りする「朗読四都MONOがたり(よんとものがたり)」、ぜひご来場いただければと思います。

 

お待ちしております!

講座の総括をすこしずつまとめながら、今月末のお知らせを当欄でしてゆきます。SNS上だと、書きずらい部分もありますし、いや、別にいつも刺激的なことを書くばかりではないんですよ!

22_【10月9日】ひさびさの東京での朗読です

考え違いー身体にことばを入れること

新年以来、Twitterは別にしてしばらく長い文章を書いていませんでした。理由はいくつかあるのですが、そこまでのことと、明日のことを書きたいと思います。

昨年11月の「青空文庫朗読コンテスト」が終わった後、札幌に行って、明日に備えて稽古をはじめるまで、この活動日報やFacebookにも残しましたが、「書いてあるものを読めばいい」と思っていましたし、実際そうしていました。しかしこれは、ある種の逃避だった。逃げていたなと気付きました。

読むことばに、予断や力みを持つことなく向き合うことはとても大切だと思います。しかしそれは、書かれた世界のことを余すことなく自分の身体と意識の中に落とし込んで、まがりなりにもそのすべてを隈なく見通すことができる、とある納得を得た上でこそ可能になるのです。このあたりが、より正確性と瞬発力と、時にはひらめきを必要とされる、一般のリーディングやアナウンスメントと朗読が異なるなのかもしれません。

そういうことを考えながら、この3週間くらいは1本の短い原稿に向き合っていました。それが明日の「第9回 朗読コンクール」(主催:日本朗読文化協会)の準備でした。明日の今頃には新幹線で東京に着いている頃だと思います。もし、今からでも聴きに来ていただけるという方、いらっしゃいましたらお知らせください。チケット、まだご用意できると思いますので。

残念ながらという方は、こちらを。先週の柳ヶ瀬で収録した、山本周五郎「赤ひげ診療譚(たん)」の冒頭作、「狂女の話」です。編集面でもすこし工夫をしつつ、YouTubeにアップしました。この後、朝9時ごろには全編を見られるようになるはずです。どうぞよろしくお願いいたします。次の柳ヶ瀬は、2月29日(土)です。