演劇他舞台芸術一般

始まりは2019年の4月18日でした

確認したら、始まりは2019年の4月18日でした。

2009年の「カラフル3」と連携して以来、お付き合いの続いていた愛知県高等学校演劇連盟(名古屋事務局)主催による「高校生のための演劇教室」という鑑賞行事がありました。

2009 劇団コーヒー牛乳・劇団帰ってきたゑびす(「カラフル3 HighSchool Meeting」として)
2014 ゲキバカ(東京都)「男の60分」
2016 飛ぶ劇場(北九州市)「睡稿・銀河鉄道の夜」
2017 天才劇団バカバッカ(東京都)「DADDY WHO?」
2019 壱劇屋(大阪府)「劇の劇」

遡るとこの5本でお付き合いしたことになるわけです。

そこの2020年の演目として、T-worksの前々回公演「Negotiation」を採択していただき、私はいつもの通り、顧問の先生方とともに行事の運営にあたる高校生の子たちの後方支援にあたるものとスケジュールしていたのでした。

しかし、ここでも憎むべきはコロナウイルスでした。

緊急事態宣言と休校明け直後となった2020年は言うにおよばず、その翌年にも何とか実現の可能性を追求したのですが、何ともならず中止の判断を下したときに、拾う神が現れました。長久手市文化の家の、当時演劇を担当していた方が、事業の中で空きがあるのでうちでどうですか?と声をかけて下さったのです。その結果実現したのが、一昨日まで開催したT-works #5「三文姉妹」でした。

https://togetter.com/li/2063877

  

その長久手での本番が2月4,5日の両日、3ステージをもって無事終了いたしました。ご来場の皆様、誠にありがとうございました。当日のお客様の感想などはこちらでご覧下さい。

気がつけばコロナも第8波。どうにかこうにか、1度も陽性を喰らうことなく過ごすことできたのは、これを何とか、何を成功とするかと言われると難しいけれど、3年越しの関わりとなったこれをきちんとした形で終わらせなければ、という思いはありました。だから、一層悔しいのです。ごく限られたお客様にしか観ていただけなかったことが。

T-works、ぜひまた愛知でお呼びしたい。そして野心溢れる劇作家と演出家の組み合わせて展開されるハズレなしの作品群を、より多くの皆様に知っていただきたい。制作者として、久しぶりに前向きになれるプロジェクトと、それに関わる人々にお目にかかれた気がします。受け入れて下さった長久手市文化の家の職員の皆様にも、深い敬意と感謝を。

こんなイラストをササッと書ける人材がいる劇場なんて、そうはないですよ。

今週末は大阪公演。私も伺うつもりです。

劇団シアターホリック 名古屋公演終了!

9月の日曜日のみの公演、という変わった形ながら、高知からやってきた劇団シアターホリックの公演「夜明け前≒LostGeneration」が終わりました。開催のお知らせから本番までわずかな期間しかなかったため、お知らせが行き届かなかったという方もいらっしゃるかもしれません。ごめんなさい。とはいえ、どうにかこうにか、恰好は何とか……、という数の皆様にご覧いただくことができました。ご来場の皆様、誠にありがとうございました。

シアターホリックをお迎えするのは、2018年3月に続き2度目でした。(前回はこちら)できるだけ身軽なスタイルということでひとり芝居、そして初の名古屋公演を計画している旨をG/PITの松井君から聞かされて引き受けた制作、その際感じた手探り感は、コロナ禍の下で進んだ今回倍増したような気がします。

まず、どこに情報を届けていいか分からない。正確には「分からなくなっていた」。カンを失っていたということですね。もちろん馴染みのお客様、声をかければおっとり刀で駆けつけて下さる方の存在もありますが、そこからいかに広げるか、こちらの地方での知名度がない中での苦しさが、こういう「地域間交流」を掲げる場合には常につきまといます。それが名古屋だけなのか、他の地域にもあることなのかは分かりませんが、よそ者には最初冷たくて、慣れるまでに要する一定の時間をどう有効に使うか。これまでもそうでしたが今後も課題だ、と感じます。

その対策では必ずしもありませんが、今回も『「その土地」であることを押し出す』ことはやりました。高知県名古屋事務所の山崎所長をはじめ、県産品セットのご提供に留まらず、ダメもとでお願いした上演時のトークにもご参加いただきけました。もう事務所のある久屋中日ビルのほうを向いては寝られない心境ですし、もう少し状況が落ち着いたら、私自身が高知に遊びに行ってお金を落とすことでお返ししたいと思います。ありがとうございました。

シアターホリックの公演はまだ続きます。

10月22、23日は愛媛県松山市のシアターねこで、そして11月13日のみですが、東京中野のRAFTにて。引き続き「ギフトチケット」の取り扱いもありますので、お近くの方もそうでない方もご注目下さい。 

久しぶりにこんな時間の世界の山ちゃんにて乾杯して、納屋橋バス停前での1枚。たまりまくっていた活動日報、今日はまだ続きます。

「モード・チェンジ」その①

今日(8月31日)もSNSのタイムラインを眺めれば、次から次へと全国各地、様々な劇団の開幕閉幕公演情報、稽古場でのオフショット、ありとあらゆる情報が流れてくる。それらを毎日浴び続けていて失うもの、というのはそんなにないのかもしれないけど、気付きにくくなるものがある、ということに、ふと思い当たったのです。

それがおそらく2,3ヶ月前。
前のエントリで「自分の軸を常に見つめてゆく2022年夏以降でありたい」と書きましたが、つまりよそ見(自分の手元で…これが重要)ばかりしていて、すっかり贅肉がつききってしまったようで。案外、自分の身体と同じことなのかもしれませんが、今の私の人生ややろうとしていること、行きたいと思っている場所、それらを見えにくくしている贅肉とは、自分にとっては一体何だろうか?、と。

ところで、いつでもどこでも、折り合いをつけようとするのが人間です。
妥協と言ったり、合意形成と呼んだりしますが、そういう「折り合い」自体が成り立つ根拠として、最上の選択Aと次善の策のBの双方に明確な意思があり、内発する希望や欲望がそれらの周りを囲んでいるわけです。

「それはほんとうに、自分の内から発せられた希望や欲望か?」

長年携わるうちに、芯と外周の境界が溶けかかっていた。それを昼間の光の下にだして、天日干ししてみようと思いました。そこで出した答えの1つ目が、昨夜(9月1日未明)のTwitterでした。

高校放送部の活動の延長線上に何があるのかをあまり考えず、興味のままに演劇へ。本当にそこでは現在に至るまでかけがえのない経験をたくさんさせてもらえた。しかしそれらはどちらかと言えば、舞台に立つ俳優よりも、むしろ公演制作方面の要素によってだった。継続して役者として舞台に立ったのは2009年が最後だし、年々後者の要素の全体に占める率が高まってきたわけです。

朗読に復帰したのは2003年4月に集中を離れてからですから、来春で満20年。役者をベースの1つとして動いた時間(1994-2009)を大きく上回ったな、と改めて思いました。ここだな、モードチェンジは、とストンと選択肢が腑に落ちたのです。モードチェンジといえば、こちら。

45歳の教科書 戦略的「モードチェンジ」のすすめ

役者要素を肩の荷から降ろして。
でもどこかでは誘われたりして、藪から棒に舞台に立つこともあるかもしれない。
でも私の本線は朗読、声。内発するもののより強い方から、さらに深み高みを目指して。俳優を引退というのは、そういう思考の基に出した結論でした。しばらく、これで歩いてみます。

この他にもまだ考えはあるので、おいおいこの欄でも書いてまいります。方向は「捨てる」そして「深める」方へ向かって。

こんな風に歳を喰いたい① 吉森治・賛

「ニシムラさん、さすがに歳を感じますよね」と、10年近く前に一緒にいた元同僚から言われて、そりゃそうだよなあ、と感じたのは、先週末に、否が応にも歳月の流れを思わざるを得ない訃報に接したからでありました。

1998年、新卒。いろいろな所で書いてはいますが、アナウンサーになりたかったはずなのに、大学で演劇にどっぷり浸かってしまい、一切それが頭から消えていたばかりか、生涯初の戯曲なぞも書いてしまうわ、その公演が首尾よくいかなかったことにたまったフラストレーションから、その2年前の暮れには劇団の旗揚げに参加してしまうわ(集中チ(○)療室のこと)という暴挙に及び、その実質的な旗揚げを終えた頃、その人の存在を知りました。立錐の余地もない程埋まった愛知県芸術劇場小ホールの客席から、劇団41年式「幕末純情伝」で暴れるその人、きまたおさむさんの姿に見入っていました。

それから僅か2年で、同じ劇場の舞台に立つことも、さらにそこから下って9年後に、吉森治と改名したその人と一緒に公演に参加することも知る由もありません。ただ今振り返ってみれば、回数は少なかったけれど吉森さんは、私のここまでの人生の節目となる、その少し前に現れるような存在であったように思います。

なぜならそれらの年、特に2009年の後半は、私にとって現在まで続く重要な節目であったからです。他でもない「朗読濃尾(ノーヴィ)」に続くことになる、いしぐれ珈琲でのひとり朗読企画「三十代の潜水生活」が始まったのは、吉森さんとご一緒した試験管ベビー公演「罪なき子供のヒドイ毒」の稽古が始まった8月でした。そこから抜けはあるにせよ124回、11年半も続けることができたのは、あの時叱ってくれただけでなく、その後の折々で気にしてくれていたあの人の存在もきっとあったように思うのです。こんな歳を喰いたい、と感じるような。

それから10年、結果的に吉森さん生前最後の舞台になってしまった試験管ベビーの公演のアフターイベントで、再びご一緒できたのも、また重要な節目になるのかもしれません。「東京ポエマーズ」という、詩に生きる男たちの連作コントで、短時間ながらあの人の隣にいられた幸せを少しだけ噛みしめながら、これからも活動を続けます…と、くどくど書きながらも、つまりはこういう言葉で結びたいと思います。

吉森さん、またねー。

探求と調和ー新年ご挨拶

実家です。

札幌から帰った直後に高校時代の恩師を交えての同窓会などの幹事もあり、ひと息つく暇もなく大晦日、そして元旦が過ぎたためご挨拶が遅れました。あけましておめでとうございます。本年もニシムラとAfroWagenをどうぞよろしくお願い申し上げます。今年の予定、今のところ決まっているのは以下の通りです。

2月1日(土)日本朗読文化協会 第9回朗読コンクール出場
https://rodoku.org/
2月15日(土)内燃機関4 出演(朗読)
金山ブラジルコーヒーにて
3月18日(水)浪花ともあれ浪曲三人舞台(制作)
https://www.afrowagen.net/wpr/?page_id=1162
8月下旬〜9月頃 朗読会拓使3(名古屋/神戸市)
9月20日(日)〜22日(祝)順風男女 旗揚げ10周年ツアー愛知公演(制作)
https://junpu-danjyo.com/

SNS、いやもっと前、インターネット上で日記を書くという習慣が生まれて以来、毎年年末年始にいろいろ書いてきました。Facebookに教えてもらったのですが、昨年の年末年始は、その種の長文を書こうとしたら途中で消えてしまい、その後悔を引きずったままごく簡潔にすませていたそうで。

それによって変わったことも、変わらなかったこともあったのでしょう。その総体として、様々なレベルでの様々な要素が関係し合い、その調和によっていま、ここに私はいるのだと思います。そう、ちょうどいまNHKEテレでやっている「呼吸する惑星」で、尊敬する山寺宏一氏がウィル・スミスの姿で語っているように。

紆余曲折があっても浮き沈みがあっても、たどり着く場所に大差がないのであれば、その過程を丁寧に押さえつつ、かつ果断を忘れずに。具体的に言えば、昨年末の札幌行きのように、朗読すること、表現することの根源、原点を疎かにしないように。

44歳、得られるものより失うものの方がそろそろ多くなりかける時です。同時に、これまで私のものだと思っていたものが縁遠くなる一方で、逆に親しみを覚えるもの、近しくなるものも、これから出てくるのでしょう。それらの収支は、まるで地球のエネルギー収支が均衡を目指すように、どこかで釣り合いが取れるのでしょう。

ならば引き続き、妥協せず、心の思うままに。

山寺さんは、番組1パートの最後にこう締めくくりました。「嵐がすぎれば、あるのは青空と虹です」

さあ、また進もう。

2020年も力を貸して下さい。

あらためて(コンテスト賞状等拝受)

日曜日までのソノノチ @sononochi 「つながせのひび」が終わりまして、月曜日には宿泊していたmisoya505(私の自宅)の片付けも済ませたらどっと疲れが出たようで、未明まで寝落ちしてしまいました。おはようございます。

妙な巡り合わせの話をしますと、今回お手伝いしたソノノチの公演が行われるあたりで私の朗読が何らかのアクションがあるのです。今回も同じでした。2015年の秋、初めて「青空文庫朗読コンテスト」で賞をいただいた時、偶然ソノノチは京都市内で公演をしていて、終了後名古屋への帰り道にあった劇場が会場でした。そして2週間後にはナビロフトでの名古屋公演も控えていました。その公演では新聞社などへの広報のみをお手伝いしていたので、ご挨拶におじゃましたのでした。→ソノノチ2015「6人のこれからの宇(そら)

当時のフライヤー。(公式サイトから)

そして今回。3年というブランクがあった分、ご覧いただけなかったお客様も多かったことは残念ですが、つぎはもう少し短い間隔でお招きできればいいなと考えています。なにやらそういう機会があるとかないとか……。これも決まりましたら、あらためてご案内できると思います。

そして、あらためてといえばこちらも。先日の「第10回 青空文庫朗読コンテスト」での賞状をメダルが届きましたので、公演のメンバーにお手伝いいただき、ご披露をさせていただきます。

さて、次の場所での打ち合わせがまた今夜から始まります。

ソノノチ @sononochi 「つながせのひび」公演終了しました

今年の演劇公演制作のしめくくりとしてお送りしました、京都の劇団「ソノノチ」公演「つながせのひび」が全日程終了いたしました。急に寒くなったお天気の中、ご来場いただきましたお客様、気にしていただいていた皆様、誠にありがとうございました。

今回のSNS上の反応については、以下のURLをご覧ください。

【12月8〜9日】ソノノチ @sononochi 2018「つながせのひび」名古屋・モノコト公演をめぐる素描(デッサン)

3年前に名古屋にお招きした際には、普通の劇場での上演でしたが、今回は普段雑貨店・カフェとして営業している「モノコト」での上演となったため、特にオーナーの森田さんにはいろいろな無理を聞いていただくことになりました。それでも2日間、つつがなく上演を終えることができたのは、スタッフの皆様のご尽力があったからこそです。改めて深く御礼を申し上げます。ありがとうございました!

(上演前の舞台の様子です)

今後のソノノチですが、実はまた来年の比較的早い時期に、名古屋近郊でお目にかけることが出来るかもしれません。これもこの公演が縁になったものともいえます。決まりましたら改めて当サイトでもお知らせしますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

(写真等はあとから追加してまいります。しばらくお待ち下さいませ)※12/9

今日また、ここから(2)キクマサプロジェクト「安土桃山エレファント」

ナビロフトでの千秋楽。1枚の写真。遡ること15年前の春、再び朗読を始める前まで所属していた劇団に彼を引っ張り込んだのは、他ならぬさらに5年前の私でした。他でもない「集中チ(○)療室」のことです。

23歳と25歳の血の気しかない男2人は、寝食を忘れる勢いで芝居とコントを作り続けました。ウソです。できない私は泣き言ばかり言っていました。彼に叱咤され通しでした。2003年の春、クラブ・ダイアモンドホールでの公演後、自分がひとりで活動を続けることを伝えた場で、彼は泣いてました。きっと本人は否定するでしょうけれど、確かに泣いてました。

その男、中村宙矢(ちゅうや)は現在に至るまで、歳相応の抱えるものを抱えながら、ひとりの俳優として名古屋で生き続けてきました。2年前に「青空」(前の(1)のエントリ参照ください)で初めて銀賞を獲れたときもひどく喜んでくれた彼は、「次は金賞しかないだろお前!」と今回も。

今回の結果を伝えた返事に、こんな返事が返ってきました。

「挑戦者の方が面白い!人は1番になると調子にのるからな!」

昨日のキクマサプロジェクト「安土桃山エレファント」で彼が演じた織田信長そのものが吐いた言葉が、そこにはありました。他でもない、私が柳ヶ瀬の「朗読濃尾」で読み続けてきた「新書太閤記」に出てきた信長そのものでもありました。

「人は挑戦している限り負けはしない」

出会って20年目で、まさか奴に泣かされることになるとは、本当に夢にも思いませんでした。

この舞台には、彼だけでなく、お互いにこの15~20年を知っている顔が舞台上に顔を揃えていました。代表の菊正(宗)、こちらも旗揚げ20年を迎える「天然求心力アルファ」の山口純、川崎稚子のご両人、実は就職後初めての舞台で一緒になった葉月充(本人はわすれてそう…)、こりんちゃの佐東えり、そして作・演出の間拓哉、場所や名前は変わっても、必死に歩こうとしている面々で再会して話をすれば、やはり自分だけが逃げ出すわけにはいかないのだ、と、最初に出発した場所にまた、戻ってくるのです。

第11回での金賞を目指して、今日また、ここからスタートです。

【見るべし】札幌演劇シーズン2018夏 #ses100 「センチメンタル」

夏休みと「朗読会拓使」の準備を兼ねて札幌に滞在中、その2です。「札幌演劇シーズン」2本目、弦巻楽団の「センチメンタル」。昨夜の初日を拝見しました。今日以降25日まで新さっぽろのサンピアザ劇場で上演中です。

先に上げた「12人の怒れる男」も、同じ日に観た「アピカのお城」も千秋楽前日だったため、おすすめしても役立てて頂けた方はほとんどいなかったのではないか、と思いますが、今回はまだ9ステージ残っています。

札幌近郊の方だけではなく、ぜひ内地(本州のこと)の方も旅行ついでにお越しになるといいのではないかと思います。以下、雑感を。

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現在から未来に向けてではなく、感傷(Sentimental)は過去に向けてどこまでも遡る。遡るというより、いつまでもそこに留まろうとする。他人にとっては取るに足らない悪あがき、ですらないことがほとんどだ。ほとんどだけなのだけれど、人は生きる分過去ばかりが重くなる。そして知らない間に足を取られ、搦め手に抗えなくなる。
教え子とその親の関係が終わり、紆余曲折を経て夫婦となっても、呼び名は変わらない。先生と呼ばれるその人も、先立たれた前妻と、彼女が残した未完の物語を抱え続けている。彼女との思い出の塊たる自宅が灰燼に帰しても。
そして、そんな先生を前にした彼女もそのことを承知している、わけじゃない。心の底では疑っている。でも許している。許さざるを得ない自分がいることも分かっている。でも。
それぞれが、それぞれの記憶を前に、自らの過去と現在、そして未来に逡巡する。そのとば口に立っている子どもたちの背中越しに、それこそが人生であることを見せている。

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決して一筋縄ではない、そのひとの人生を生きることこそ、望むことに臨むことの尊さを丁寧すぎるほど丁寧に描いたのが、弦巻楽団 @tsurugaku の「#31センチメンタル」です。 ニシムラ、本気でお勧めします。

詳しくは#札幌演劇シーズンの公式サイトをご覧下さい。

#ses100

劇場は人ー本田秀徳さんを送るー

葬儀というものに参列したことはもう両手でも余るようになってしまいましたが、まさか自分が誰かの「偲ぶ会」の司会をすることになろうとは思いませんでした。しかも、こんな身近な方の。

Twitterではすこし流したのですが、去る5月10日に、岐阜市文化センター副館長であった本田秀徳(ほんだ・ひでのり)さん55歳で急逝されました。通夜・告別式は密葬で行われ、お別れを述べることがかなわなかった、勤務先を所管する、(一財)岐阜市公共ホール管理財団の方々が発起人となったものでした。

 

5月12日の夜、かつて文化センターで開催された「詩のボクシング」岐阜大会の際に事業担当としてお世話になったA氏から連絡をいただきました。最初、一体何を言われているのが分かりませんでした。4月の「朗読濃尾」のためにいしぐれ珈琲へ行った際、「体調崩しちゃってさあ、GW明けには退院してくるってさ」という話を聞いていたので、てっきりそのお知らせか思ったのです。

初めてお目にかかったのは2005年12月。名古屋に数年ぶりの大雪が降り、交通機関という交通機関がマヒした日の翌日でした。当時、付き合いのあった三重県の劇団、ゴルジ隊で俳優をしていたわっきふみこから紹介を受けて、「演劇的トーク」という名前の催事を手伝って欲しいということになったのでした。ただ、この時点までに全く面識がないばかりか、どうも台本も企画書も何もないらしい。だけど、来年(2006年)の2月には本番が迫っている。即興的な内容になるらしい。えっ、インプロだからって私に?とにかく訳が分からなかったのです。

それもそのはず。そもそも、当時の自分にとって、演劇だけでなく、アート全体おいて岐阜市という街へのイメージはほぼ、良いも悪いもありませんでした。ジャブジャブサーキット、あとの祭り等個別の団体の名前はしってても、ただ、それだけでした。頭の中で像を結ぶような要素がなにもなかったのでした。

その中で本田さんには、妙な熱がありました。そのことがまず、明らかに異質でした。変なおじさんが目の前にいきなり現れて、早口とはいえない口調でぽつ、ぽつとアイディアを語り続けるのです。私だけでなく、その熱にあてられたかのように、「市民スタッフ」と呼ばれた普通の人たちのアイディアも、妙な熱量にあふれていました。その結果、なんだかよく分からないうちに出来上がったこのイベント、「舞台はどこにある?」は、日本映画黄金期の60年代に活躍された故・田村貫(たむらとおる)さんへの生インタビュー的演劇として、たった1回の上演を終えました。

約12年前のブログの記事、まだ残っています。
https://blog.goo.ne.jp/afrowagen/e/9a3ad5d3844bb4f2749e8e…

当時のちらしはこちら。
http://gifu-civic.info/subsites/menu_detail/5/20

そんな演劇?トークショー?ワークショップ?言葉の定義もそこそこに駆け抜けた市民スタッフの中に、誰であろう、いしぐれ珈琲を開く前の石榑昇司さんがいて、それから2年と少し後のひとり朗読「潜水生活」シリーズのスタートにつながっていくわけです。

その後、「詩のボクシング」岐阜大会に選手としてエントリーしようとした私を押しとどめ、レフェリー/リングアナを振ったり、シネマスコーレの木全さんと一緒に企画した「3日間で作る短編映画」ワークショップに私を巻き込んだり、とりあえず楽しい思いしかこれまでなかったのです。

 

だからなのでしょうか、本田さんがまるで風に吹かれるようにいなくなってしまった今でも、悲しさよりもまず寂しさが、寂しさよりも、後腐れのなさ、さっぱり感が強くあるのです。間違いなく、もっと一緒に楽しいことをして遊びたかったのは確かなのですが、あるいはこの後時間が経てば経つほど、その不在を重く感じるのかもしれませんが。

7月15日の夕方、「サンデービルヂングマーケット」の喧噪が去ったあとの柳ヶ瀬で行われた「偲ぶ会」には、ここまでの10年の間で本田さんが企画された、岐阜市民会館・文化センター専属ビックバンド「楽市JAZZ楽団」音楽総監督の野々田万照さん、音楽監督の粥川なつ紀さんと楽団メンバーの皆さん、「短編映画WS」仕掛け人の片割れ、シネマスコーレの木全純治さん、そして劇団ジャブジャブサーキットのはせひろいちさんご夫妻、劇団芝居屋かいとうらんまの後藤卓也さんと劇団員の皆さん、仕事では前に出たがらなかった本田さんがストレスを発散するように(?)俳優・作り手として参加されていた映画製作集団「石暮探偵事務所」の皆さん、そのほか人、人、ひと。

90人で想定していた客席はとても足りず、140名を超える方に足を運んでいただきました。主催者側の末端に寄せていただいたものとして、深く御礼申し上げます。

会の最後で、はせさんがだいたいこんな感じのことを言われました。「そうでない(つまらない意匠とアイディアしか持ち得ない…ニシムラ注)公共ホールが全国にあまたある中で、会いに行きたいと思う人がいるホール、そこが良いホールなんだ。だからこそ、いま本田さんを失ったこと残念でならない」と。

私も含め、つめかけた誰もが同じ気持ちであったと思います。

ひとも、街も変わっていきます。柳ヶ瀬も同じです。いつかは別れる定めでも、いやいつか別れる定めだからこそ、惜しみなく熱を交わしあいたい。本田さんと出会ってからの岐阜での12年は確実にそんな時間であったように思います。

故人のご冥福を、会の進行上は言いましたが、そんなもの祈りません。だって遠からず自分も行く場所に、本田さんが座を温めに先に動いてくれただけのことですから。いつもそういう風にしてくれた本田さんでしたから。もうしばらく、岐阜で、濃尾平野で頑張りたいと思います。

本田さん、またね。