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「ikki星☆」@内幸町ホール終了

昨夜(104日)は、先月に行われた「ikki星☆が挑む 朗読 太宰治の世界」の振り返りZoomでした。公演そのものが終了して、いやそのかなり前からモヤモヤしていたものの正体が、今朝起きる前のベッドの中で「!」という感じで気付いたので、ここに書き残しておきたいと思います。

9月22日(日) IKKI星☆が挑む「朗読 太宰治の世界」(ミニ講演:太田治子氏)

 

なお、いろいろハレーションが起きることが予想されるので、SNSには流しませんし、おそらくこの欄を見てらっしゃる方はごく少数である(断言)分、しっかり残しておきます。

これは一部Facebookでも触れましたが、まず他の出演者の皆さんと、スタンスがまるで違うこと、それこそ、よく最後まで喧嘩別れせずにできたなあ、ということを改めて思いました。朗読で何を表現するか、という根本の部分において、良いとか悪いとかではなく違いがある。

自己を、つまり自分自身の感情や感覚を表に出す「表現」なのか、

作品世界や人物・事物そのものの描写に徹し、自己を隠す「表現」なのか

という違いです。

私はこれまで関わってきた演劇の世界でも、その延長線上にもある朗読においても基本的には後者であるべきと考える者です。役者の素を曝け出してはいけない、たとえ姿かっこうは変わらずとも、薄皮1枚、そこにしかない幻を信じなさい、と教えられてきたものでした。

だから朗読に移行する前、ナレーションを学んだ現場で戸谷(美恵子)先生に「あんたは声ばっかり大きくてブレーキがないの!」とよく叱られました。今から思えば、戯曲やセリフが醸す世界に没入して読み手が見えない、自分がどう聞かれているかを意識しなさい、ということだったのだと思います。

ただし、そうは言っても、実際の朗読や舞台はこの2つのうちのどちらかしか存在しないというわけでもなく、常に混在しその比率は時と場合によって変動するものだ、とも考えています。多分その認識は、これまで自分が修めてきた技術的な面が大きいと思いますし、意識的かどうかを問わず、自己の感覚・感情を作品と直結させて馬力を出す、という局面もあるはずで、実際これまでもありました。

多分、私以外の方々は、そのあたりの揺れ動きとはほぼ無縁で、まずはご自分がどう前者の意味で「表現」するかが先に立つ、もっとあけすけに言ってしまえば、作品や作者の世界観をダシにして自己を表出する、と言っても良いかもしれません。そこが、書かれてある小説の言葉との距離感を探り探りしていた稽古での私に、画面越しに苛立たれていた理由だったのかもしれません。

繰り返しになりますが、それが悪いとは言いません。

ただ今後、継続的にご一緒できるかと訊かれれば、うーん、このままならば限度があるかなという感想を、振り返りのZoomでのやりとりを聴きながら抱いていたのだな、と未明のベッドで気付いたのでした。

実際の朗読、ニシムラは狸にしか見えなかった、というご感想と、何言ってるか分からなかったというご感想の両方がありました。当然のことだと思いますし、改めて、テキストを読み込み、掘り下げ、それを声に出すことでどこまで密度を濃く描き出すことができるかに挑まねばならない、と感じた今回の内幸町ホールでした。

以上で報告を終わります。

本日東京「IKKI星☆」の太宰治です

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今月2度めの3連休、初日から東京に来ています。当日報欄でもたびたび触れている、NPO日本朗読文化協会が主催した「朗読指導者養成講座」に参加したのが2021年秋から翌年の夏にかけて。そこが「朗読四都MONOがたり」開催のきっかけにもなったのですが、今回もこれはより大人数での企画であり、内幸町ホールという会場の規模も違う、いわば「大ごと」なのですが、ここまでZoomでの打ち合わせのみで進んできたので、なかなか大変でした。

詳細は協会のページにも掲載されていますのでこちらからどうぞ。

9月22日(日) IKKI星☆が挑む「朗読 太宰治の世界」(ミニ講演:太田治子氏)

しかし昨夜(9月22日)、対面での最初で最後の通し稽古を終えて、少しだけ不安は解消されました。もちろん本番でどんな不測の事態が起こるのか、それはわかりませんが、まー何とかなるでしょ?くらいの気持ちで行ってみたいと思います。

チケットは相当早くに完売となりました。それこそ私がSNSでお知らせをする暇もないくらいで、大変ありがたい話です。首都圏は朗読への関心がやはり高いのだなと実感しているところです。

今度はちゃんと報告いたします。座談会の記事を上げてないことに今気づいたので…。

「朗読座談会」終了ご報告

(一部Facebookと内容が重なる箇所があります)

参加する前にエントリを残しておいた「朗読座談会」、終わりました。ご参加の皆様、ありがとうございました。有料での配信はこの後2月20日からなので、お申し込みの方でそちらを見られる方には少しネタバレになってしまうかもしれませんが、自分の感想主体で当日の様子をご報告します。
新幹線で上京の途上の間、なんとなく「口火を切るとすれば自分だろうな」と思っていました。パネラーとしての出場者中、男性は私含めて2人、そして多分、年齢も若いほう。ということは…という考えと、同時に、話すとすれば「私(の朗読)はどうあるべきか、どうしたいか。そういう自己規定の話」だと思っていましたので。そして、その意図を感づかれていたのかどうかはわかりませんが、進行側にいらした加賀美幸子さんから最初に指名されてしまい、自分の目論見通りに口火を切ることになったのでした。
そこでまず私が名前を出したのは、徳川夢声でした。
いま私は岐阜・柳ケ瀬で吉川英治作品を読んでいますが、夢声翁の朗読といえばラジオ関東(現・アール・エフ・ラジオ日本)や地元の東海ラジオで放送された「宮本武蔵」であり、20年以上も前にラジオから流れたそれを耳にした時の衝撃をそのまま伝えたつもりです。
あるいは、その感じがその後の進行をスムーズにしたのかもしれません。「上手い朗読って、何?」というタイトルに対して、他の参加者の皆さんも思い思いに話をし始め、「えっマジそれ言っちゃっていいの?個人特定されない?」という話題を出される方(これはさすがに書けない)もいたり、気が付けば盛り上がりの中で150分近くを過ごすことになりました。
後半部分では、2007年に「三十代の潜水生活」という名前で2人の朗読イベントを始めた時に、企画書か当日のパンフレットに残した言葉も思い出したので、それを申し上げたりしました。これは今でも変わらないつもりですが、朗読は自分ひとりが読むものではないし、「わたし読む人/あなた聴く人」という区分けは無意味だと思っています。私が私の音声を用いて申し上げた言葉を耳で聞き取ることで、あなたも「読む人」なんだと思っている、というようなことも付け加えました。
いずれにしても、とても意味のある、得難い経験になったと感じています。さて、これを基に次はどう動くかということが問われます。頑張ります。
写真は終了後の集合写真。そして会場(東京ウイメンズプラザ)の隣が国連大学で、ちょうどマルシェが開かれていたのでタコライスを。

本日「朗読座談会」@東京・青山

23時をかなり回ってから書き始めて、きっと打っているうちに日付が変わるだろうな、と思っていたらその通りになりました。今日はこの後寝て起きて東京に向かいます。
2021〜22年にかけてお世話になった、日本朗読文化協会が主催する「朗読座談会」に、一般の参加者のひとりとして加わることになりました。既に会場観覧も動画配信も申込みを締め切っているので、残念ながらこれからご案内をすることはできないのですが、参加する前に、私自身の思うところを書き残しておこうと思います。
「上手い朗読って、何?」というのが当イベントのパンチラインですが、ひとことで申せば
「そりゃいろいろでしょうよ」
になるかと思います。身も蓋もない話ですが。発声と言葉の調音に重点を置けばアナウンサー、ナレーターと呼ばれる方々が最も得意とするところでしょうし、劇的表現であれば、俳優声優、あるいは伝統的な音声芸術、文楽常磐津清元落語講談浪曲といったあたりを生業とされる先生方が自家薬籠とされるところでしょう。
そのどちらでもない、私はどうあるべきか、どうしたいか。
そういう自己規定のお話だと思うのです。
こう読むのがいい悪い、こんな読み手のここが上手・下手などという狭い了見の話ではなく、これまでの来し方と今後の私の歩もうとする方向をお話しできる機会であれは有り難いと思います。
また終わりましたら報告をいたします。

「朗読四都MONOがたり2023」終了

本番終わって、あれやこれや済ませていたら時間がかかってしまい、久しぶりの夜行高速バスで帰名して1日働いて寝て起きて、未明にこれを書き始めました。10日14日〜15日の、シブヤ大学での朗読ワークショップを含めた「朗読四都MONOがたり2023」、つつがなく終えることができました。ご来場の皆様、開催にご支援、ご協力をいただきました皆様、改めて深く御礼申し上げます。ありがとうございました。

各種SNSにも既に書いたり書こうとしていたりしますが、あまり目立たないこちらには、私が今作の制作に携わるに当たって、本当にお世話になった2人のことを記録しておきます。

前回に続き、ちらしのデザインをお願いしました、三重県津市の「橋本デザイン室」の橋本純司さん。出会ってからもう20年近く、宣伝美術をお願いする関係だけでも14,5年の中で、一貫して私の考えていることをビジュアルに落とし込んでいただける貴重な存在です。言葉が過ぎるかもしれませんが、一般的な朗読会のちらしは、会の大小を問わず、「中村仲蔵」の台詞にも出てくる「工夫が足りない」感を帯びたものが大多数です。つまりダサいものしかない。「朗読会拓使」から続く流れの中で、何としてもそれだけはしたくありませんでしたので、今回の反応は幸いなものとなりました。そんな橋本さんは今度、ご自身が戯曲と演出されるユニット「コケムスカヲリ」の上演があります。「中島さんを最近見ない」

http://kokemusukaori.com/stage/nakajimasan/

11月末は三重県伊勢市、12月16日には津市で開催される松原豊さんの写真展の関連企画としての上演、ぜひチェックしてみて下さい。私は伊勢の方に行くと思います。

https://gallery0369.jp/exhibition/2023matsubarayutaka-murakio/

そして、今回の告知記事を書いて下さった、東京新聞(中日新聞東京支社)社会部の小川慎一さんとも、もう10年以上のお付き合いとなりました。もともとTwitterでは繋がっていたところに、岐阜(支社)に赴任されることになり、そのころ通算50回そこそこだった「三十代の潜水生活」を取材していただきました。今回、10月5日付朝刊の都心版に掲載された記事を読みながら、その時のことをまた思い出しました。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/281769

そういえば、東京に転勤で戻られるとき、柳ヶ瀬で最後に飲んだ店は、今年5月に開業10年を迎え、記念のイベント「演劇の日」にお邪魔した神室町商店Heatでした。やはり繋がるんですね、何ごとも。もちろん、それは分かっていたので、朗読の際に身につけたネクタイは、私を岐阜とつないでくれたきっかけとなった方、元・岐阜市文化センター副館長の故・本田秀勝さんの形見分けでいただいたものだということも申し添えておきます。

4者4様の朗読、いい意味でも悪い意味でもバラバラでまとまりがなくて、そもそも私を含め朗読家の特性として自分のことが最初に来る(笑)という関係上、まとめるのに苦労もありましたが、何とか終えることができると、やはりそれが喜びに変わったのは間違いないです。その意味で旅をしていたのは、お聴きいただいた客席の方々とともに、舞台上の私たちもだったかもしれません。

来年は名古屋らしいです。今から準備しないと、と思うとおちおち寝てもいられませんが。

今日までそして明日からー養成講座修了

先月末の予告に反し、いきなり総括を書いてしまいました。個別のメモは後から追加してゆくとして、最初にこれまで、自分の目からときどき見えてきた風景を書き残しておきます。

何回読んでも、何本上げても、それらが誰に届いているか感じられない。リアルでやっても、客は集まらないし、そもそも知られているのかも、そして存在を認識してくれている人が果たしているのかどうか、それも分からない。もとより名古屋では、私の朗読に関心を払ってくれる人は大していないけれど、最近その傾向がとみに強くなっていないか……。

以上、もちろん、ここまで書いたことを常に思っていて鬱々としているというわけではなく、体調が悪かったり睡眠が足りなかったり、これまで何らか心身の状態にアンバランスさを持っている時に比較的出やすい、愚痴というか繰り言みたいなものですが、そういうことを抱く時間が、ここのところ増加傾向にあったのも事実だったのです。それが、先月の「隣の芝は光ってみえる2022」というエントリにもつながったのでしょう。たぶん。

曲がりなりにも続けることで保ってきた自らの「軸」みたいなもの。他との比較を意識するあまり、それがグラグラしていたのも、ここ数ヶ月というところ、つまり今日まで受講してきた日本朗読文化協会の「朗読指導者養成講座」と重なる期間でもあったのでした。

で、ようやく本題、そしていきなりの結論です。
この12回の講義は、弱っていた私の朗読の基礎杭の部分に、新たにセメントを流し込むかの如く、確固とした養分を流し込んでくれました。基礎編としてボイスの山崎広子、日本語の構造の考察で野田尚史の両先生、実践編としてNHK関係から渡辺考さんからはドキュメンタリストとしての対象の見つめ方、吉川精一アナウンサーからは番組の司会経験からのレトリックを、そして中西和久さんからは実際の講談台本を用いた台詞回しと抑揚、緩急を。バラバラに見えてそれぞれ朗読表現の根幹を形作るアプローチの方向、考え方の方角を与えてくださったと感じています。

基礎編の最初、そして表現編の最後の2回は回の名誉会長、加賀美幸子さんの講義でした。振り返れば、第1回と今日(8/27)、言われていることに大した違いはたぶんありません。だけど、聞く私、おそらく他の方もそうだったと思うのですが、聞こえ方が違い、分からなかった意味や意図が少しは分かるようになっている。そんな気がするのです。

写真にもありますが、ちょうど今週会場から見える東京タワーを覆うように建設が進む高層ビル(麻布台プロジェクトというらしいです)が、徐々に鉄塔の高さと肩を並べるように、私たちは少しは学んだし進化した。そう信じたいです。

・指導は精神論でなく具体論で
・教えるのも学ぶのも人間力(良識をもって勤勉であること)
・素材をとことん研究し取材すること
・古典に学び、取材を

最後の講義でも触れられたその4つに加えて、「あなたにとって朗読とは?」と問われた答えを並べるならば、

・知られていない、埋もれている作品を「発掘すること」
・技術の向上と継続した活動でそれらを「伝えていくこと」
・育成とその手法の研鑽を通じ「つないでいくこと」
・自らのアンソロジー(選集)を「編み続けること」

の4つを挙げて発表し、私に与えられた時間の締めくくりとしました。

最後に読んだ辰濃和男の随筆と山之口獏の詩、どちらもこれから手がける重要なテキストになりそうです。講座はこれで終わりましたが、日付が変わり今日からまた始まります。タイトルはそういう意味であり、一見変わらない日々であっても、私自身の朗読を変えてゆく、その小さな変化を積み重ねて行きたいと思います。

もう前エントリみたいに「隣の芝が青い」ことに惑ったり慌てたりせず、自分の軸を常に見つめてゆく2022年夏以降でありたい、と思います。

協会の皆様、講師の皆様、そして受講生としてご一緒した皆様、本当にありがとうございました。今後ともよろしくお願い申し上げます。

隣の芝は光ってみえる2022

ほんと、表題の通り、他人や自分が関わらない公演やプロジェクトの多くが、普段感じる以上に盛り上がり、それが羨ましくみえて仕方がなかった何ヶ月間かを過ごしていた気がします。それはそのまま、SNSの見過ぎであった時間の連続でもあったのだな、とも思います。いや、きっとそうだ。
どこがとはいいませんけれどもね、何とかスラムジャパンとか。
私はこれまで参加したことはありませんが、心情的には応援してきましたし、それは今も変わっていないつもりです。ただ、そこに含まれる多くの要素の中に、私自身がこれまでやってきたことを否定される傾向が見いだされるようになったことが残念でならない、とも感じている者でもあります。

 

何が「お前のやっていることと一緒にするな」だよ、ということです。すべての組織、サークル的なものが持つ宿痾というものから逃れられなかったということなのか。仲のいい方もいないではないので、今までは遠慮していましたが、いつまでも曖昧にしていけない気がするので、踏ん切りをつけてしまうことにしました。

 

そういう風に煽られてしまえば、悲しいことですがこちらもこう応じざるをえない。

 

「あそこで垂れ流されている朗読と呼ばれるものだけが朗読じゃない」と。

 

ということを差し引いても、何してんの?というものも一定含まれている場所を、ばっくりとした見方でしか観れず、語れなくなっていたのは、きっと寒すぎたし、間をおかず暑くなりすぎたからだ、ということのも大きいのだと思います。

徐々にコロナ禍の中から日常の活動を取り戻そうという動きが出てきて、それになかなか追いつく環境が整わない当方と比べて焦りを感じていましたが、ようやくそういう自分もお知らせができます。

約5年ぶりに、東京で朗読します。
昨年の秋から月1回、(特非)日本朗読文化協会(https://rodoku.org/)に会員としてお世話になり、朗読指導者養成講座の末席に加えさせていただきました。まもなく終了する講座の締めくくりのような日程であるのは決して偶然でなく、これまでとこれからの節目になるような大切な時間になるような気がしますし、そう聴く皆さんに感じていただけるような時間をお届けするつもりです。
若き江戸川乱歩が私淑し慕った、愛知県蟹江町出身の医師であり探偵小説家「小酒井不木(こさかい・ふぼく)」。その中でも珍しく笑劇(ファルス)の要素が濃い短編「変な恋」を持って行きます。その他、ご一緒する皆さんそれぞれが、自らのルーツとなる土地にまつわる作品を持ち寄ってお送りする「朗読四都MONOがたり(よんとものがたり)」、ぜひご来場いただければと思います。

 

お待ちしております!

講座の総括をすこしずつまとめながら、今月末のお知らせを当欄でしてゆきます。SNS上だと、書きずらい部分もありますし、いや、別にいつも刺激的なことを書くばかりではないんですよ!

22_【10月9日】ひさびさの東京での朗読です

考え違いー身体にことばを入れること

新年以来、Twitterは別にしてしばらく長い文章を書いていませんでした。理由はいくつかあるのですが、そこまでのことと、明日のことを書きたいと思います。

昨年11月の「青空文庫朗読コンテスト」が終わった後、札幌に行って、明日に備えて稽古をはじめるまで、この活動日報やFacebookにも残しましたが、「書いてあるものを読めばいい」と思っていましたし、実際そうしていました。しかしこれは、ある種の逃避だった。逃げていたなと気付きました。

読むことばに、予断や力みを持つことなく向き合うことはとても大切だと思います。しかしそれは、書かれた世界のことを余すことなく自分の身体と意識の中に落とし込んで、まがりなりにもそのすべてを隈なく見通すことができる、とある納得を得た上でこそ可能になるのです。このあたりが、より正確性と瞬発力と、時にはひらめきを必要とされる、一般のリーディングやアナウンスメントと朗読が異なるなのかもしれません。

そういうことを考えながら、この3週間くらいは1本の短い原稿に向き合っていました。それが明日の「第9回 朗読コンクール」(主催:日本朗読文化協会)の準備でした。明日の今頃には新幹線で東京に着いている頃だと思います。もし、今からでも聴きに来ていただけるという方、いらっしゃいましたらお知らせください。チケット、まだご用意できると思いますので。

残念ながらという方は、こちらを。先週の柳ヶ瀬で収録した、山本周五郎「赤ひげ診療譚(たん)」の冒頭作、「狂女の話」です。編集面でもすこし工夫をしつつ、YouTubeにアップしました。この後、朝9時ごろには全編を見られるようになるはずです。どうぞよろしくお願いいたします。次の柳ヶ瀬は、2月29日(土)です。