2022年9月

ここからひろがる—「ディマージュの庭」第23回

シアターホリック名古屋公演のあった週は、偶然私のいつもの朗読と重なりました。本来ならば月の第3週に行われる刈谷市のギャラリー「ギャルリ・ディマージュ」での「ディマージュの庭」が、1週繰り上がったためです。そして、その繰り上がりの理由が、個人的にはグッとくるものでありました。

2020年の秋、まだ移転前の、JR刈谷駅近くにあったディマージュで始まったこの企画は、毎回ひとりの詩人を取り上げ、その人となりを私が毎回取材して話したり、たまには作品を読んだりという1時間の内容で、これまで22回繰り返してきました。

そのことを当日報でもなかなか書かなかったのは、ありていに申し上げて、今も現役で活躍されている方、また鬼籍に入った後も著作権保護期間が続いていて、その許諾に一定の時間を要してしまう方の作品群に触れることもあり、そこがクリアされない方の作品を読みます・読みました、と申し上げる訳にはいかなかったという事情でした。なので、これまでSNSで公開したもの以外については今後もお知らせはしないつもりです。何卒ご了承下さい。

そういうディマージュの庭の中でも、ここまで通して行ってきたのは、ギャルリ・ディマージュのオーナー、角谷さんの夫君、清和さんがずっと書いてこられた詩を1本読むということでした。その本数がたまってきたこの秋、清和さんの詩と、陶芸の徳竹秀実さんとの2人展「詩と土の歌」が行われることになったから、このタイミングで読んでくれないか、というお誘いをいただきました。

本当、ささやかなものでしかないかもしれない。でも続けてきて良かったな、と思えました。私の朗読が、私のあずかり知らないところで拡がって伝わる、その最もわかりやすい例が生まれたわけですから。

その一部をご覧に入れます。

「景色が海へと」という詩を読んだあたりです。完全版は編集した上、来週の今ごろにはアップしたいと思います。よろしくお願いいたします。

トップの写真は清和さんと徳竹さんに挟まれた私。お世話になりました。

次回は10月15日です。刈谷市の方、ほかお近くの方、ぜひ1度ディマージュにお越し下さい。お待ちしています。

劇団シアターホリック 名古屋公演終了!

9月の日曜日のみの公演、という変わった形ながら、高知からやってきた劇団シアターホリックの公演「夜明け前≒LostGeneration」が終わりました。開催のお知らせから本番までわずかな期間しかなかったため、お知らせが行き届かなかったという方もいらっしゃるかもしれません。ごめんなさい。とはいえ、どうにかこうにか、恰好は何とか……、という数の皆様にご覧いただくことができました。ご来場の皆様、誠にありがとうございました。

シアターホリックをお迎えするのは、2018年3月に続き2度目でした。(前回はこちら)できるだけ身軽なスタイルということでひとり芝居、そして初の名古屋公演を計画している旨をG/PITの松井君から聞かされて引き受けた制作、その際感じた手探り感は、コロナ禍の下で進んだ今回倍増したような気がします。

まず、どこに情報を届けていいか分からない。正確には「分からなくなっていた」。カンを失っていたということですね。もちろん馴染みのお客様、声をかければおっとり刀で駆けつけて下さる方の存在もありますが、そこからいかに広げるか、こちらの地方での知名度がない中での苦しさが、こういう「地域間交流」を掲げる場合には常につきまといます。それが名古屋だけなのか、他の地域にもあることなのかは分かりませんが、よそ者には最初冷たくて、慣れるまでに要する一定の時間をどう有効に使うか。これまでもそうでしたが今後も課題だ、と感じます。

その対策では必ずしもありませんが、今回も『「その土地」であることを押し出す』ことはやりました。高知県名古屋事務所の山崎所長をはじめ、県産品セットのご提供に留まらず、ダメもとでお願いした上演時のトークにもご参加いただきけました。もう事務所のある久屋中日ビルのほうを向いては寝られない心境ですし、もう少し状況が落ち着いたら、私自身が高知に遊びに行ってお金を落とすことでお返ししたいと思います。ありがとうございました。

シアターホリックの公演はまだ続きます。

10月22、23日は愛媛県松山市のシアターねこで、そして11月13日のみですが、東京中野のRAFTにて。引き続き「ギフトチケット」の取り扱いもありますので、お近くの方もそうでない方もご注目下さい。 

久しぶりにこんな時間の世界の山ちゃんにて乾杯して、納屋橋バス停前での1枚。たまりまくっていた活動日報、今日はまだ続きます。

「モード・チェンジ」その①

今日(8月31日)もSNSのタイムラインを眺めれば、次から次へと全国各地、様々な劇団の開幕閉幕公演情報、稽古場でのオフショット、ありとあらゆる情報が流れてくる。それらを毎日浴び続けていて失うもの、というのはそんなにないのかもしれないけど、気付きにくくなるものがある、ということに、ふと思い当たったのです。

それがおそらく2,3ヶ月前。
前のエントリで「自分の軸を常に見つめてゆく2022年夏以降でありたい」と書きましたが、つまりよそ見(自分の手元で…これが重要)ばかりしていて、すっかり贅肉がつききってしまったようで。案外、自分の身体と同じことなのかもしれませんが、今の私の人生ややろうとしていること、行きたいと思っている場所、それらを見えにくくしている贅肉とは、自分にとっては一体何だろうか?、と。

ところで、いつでもどこでも、折り合いをつけようとするのが人間です。
妥協と言ったり、合意形成と呼んだりしますが、そういう「折り合い」自体が成り立つ根拠として、最上の選択Aと次善の策のBの双方に明確な意思があり、内発する希望や欲望がそれらの周りを囲んでいるわけです。

「それはほんとうに、自分の内から発せられた希望や欲望か?」

長年携わるうちに、芯と外周の境界が溶けかかっていた。それを昼間の光の下にだして、天日干ししてみようと思いました。そこで出した答えの1つ目が、昨夜(9月1日未明)のTwitterでした。

高校放送部の活動の延長線上に何があるのかをあまり考えず、興味のままに演劇へ。本当にそこでは現在に至るまでかけがえのない経験をたくさんさせてもらえた。しかしそれらはどちらかと言えば、舞台に立つ俳優よりも、むしろ公演制作方面の要素によってだった。継続して役者として舞台に立ったのは2009年が最後だし、年々後者の要素の全体に占める率が高まってきたわけです。

朗読に復帰したのは2003年4月に集中を離れてからですから、来春で満20年。役者をベースの1つとして動いた時間(1994-2009)を大きく上回ったな、と改めて思いました。ここだな、モードチェンジは、とストンと選択肢が腑に落ちたのです。モードチェンジといえば、こちら。

45歳の教科書 戦略的「モードチェンジ」のすすめ

役者要素を肩の荷から降ろして。
でもどこかでは誘われたりして、藪から棒に舞台に立つこともあるかもしれない。
でも私の本線は朗読、声。内発するもののより強い方から、さらに深み高みを目指して。俳優を引退というのは、そういう思考の基に出した結論でした。しばらく、これで歩いてみます。

この他にもまだ考えはあるので、おいおいこの欄でも書いてまいります。方向は「捨てる」そして「深める」方へ向かって。