【見るべし】札幌演劇シーズン2018夏 #ses100 「12人の怒れる男」

夏休みと「朗読会拓使」の準備を兼ねて札幌に滞在中です。札幌の夏といえば、というと冬もそうなんですが「札幌演劇シーズン」ということで、観て歩きはじめました。1本目は「12人の怒れる男」いか、連続ツイートを再掲します。千秋楽は本日14時!ぜひ当日券を狙っていただきたいです。

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札幌演劇シーズン2018夏 #ses100 「12人の怒れる男」。2011年の震災直前に名古屋で上演した際、演出助手として稽古場にいた時の情景を思い出しつつ今回も観た。移り変わる時代により受け取り方は変わるだろうが、戯曲はもちろん、演出も俳優陣の演劇も筋の通った素晴らしいものだった。

ルーツはTVドラマとしてだったが、マッカーシーズムが席巻する中で作られた1954年当時のアメリカと、現在の日本が奇妙に、うんざりするほど重なって見えてくるのを上演の進行に追いながら感じていた。陪審員各々から滲む個々の背景と、それに囚われる思考と意見、そして互いへの不寛容。@engekiseason

これまでの上演、私の立ち会った現場でも「差別」をどう扱うかが焦点になった気がする。具体的には移民という出自を明かす11号(水津聡)に対する態度だが、今回の演出が異なり優れていたと感じるのは、そこに更に「冷笑」という要素を乗っけてきたことで、この戯曲が新たな時代性を獲得した気が。

SNS全盛、ちょっと自分のページを開いてたどれば誰かの言動や行動を冷笑する言葉の塊に出会う。すでに稀という言い方はできない程度に。その象徴になっていたのが7号(桜井保一)という書き込みは「ゲキカン」のページ s-e-season.com/gekikan/ でも見た気がするが、自分は違うことを考えた。

真の冷笑は、普段はその表情や態度を見せずに場の空気を推し量るものから最も激しくなされる。その意味で8号(久保隆徳)は勿論、理知的な議事に努める1号(能登英輔)、4号(河野真也)を常に遠い位置から、少年の命や陪審制度自体と共にあざ笑っていたのは10号(小林エレキ)ではないか。

そして、7号の喧しさに隠れて、10号は自ら語らず、自らの思う方向に持って行こうとした。それを9号(山田マサル)に対する侮蔑という形で漏らしたことで6号(齋藤歩)に目ざとく見咎められる瞬間もあるのだが、これはぜひ本番で確認していただきたい。ご覧になっていない方は。

一方で錯綜する議事と意見の応酬に自らを見失い続けるやりとりがより明示的だったのも、今回の特色だと思った。2号(明逸人)と12号(江田由紀浩)の意見の変遷はいつも振り子のようだが、その弱さというのが、現在の私たちの社会が抱える、少数意見へのバッシングと表裏をなすのでは?と感じた。

最後。そういう時代に見た #12人の怒れる男 においても、戯曲の背骨となっている3号、平塚さんと5号(倖田直機)の対峙が、会えずにいる3号の息子にも見えたのは、やはり戯曲、演出、そしてプロデュースワークの勝利だっとのだろうな、ということで。本日千秋楽。あと1回ですよ。当日で!

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