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12月28日をめぐる3つの奇跡

札幌・狸小路の「俊カフェ」で行われた「朗読濃尾(ノーヴィ)」から帰ってきました。その報告です。道中、起こった2種類3つの奇跡ともいうべきことについて。

普段は新千歳に直行するところ、「ムーンライトながら」で品川、始発の京急で羽田に行って函館行きの始発で飛んだのはやはり私とどこかでつながっているかも知れない、同じ名古屋をルーツにした旧尾張藩士たちが入植した八雲のことを「冬の派閥」で読むのなら、ちゃんと知っておきたいという気持ちからでした。それが奇跡のきっかけでした。

函館=箱館は幕末に開港した街。そしていち早く和人とアイヌと外国船員たちが混交し、交流し、文化の集積地になった街というイメージのままの風景。その中で、久生十蘭、長谷川海太郎、佐藤泰志、辻仁成といった小説家たちの「言葉」が渦巻き、蓄積しているのだということを市立文学館の展示を見て感じつつ、スーパー北斗で1時間、八雲駅に着きました。

レンタカーで回る余裕もなく、手近なところからと町の公民館へ。するとありました「徳川さんの像」。尾張徳川家第14代藩主、徳川慶勝(よしかつ)公の彫塑です。維新後、自らカメラを操り多くの記録を遺したところから「写真家大名」と称された公の肖像写真そのままの姿でした。

その裏手にある町郷土資料館と「木彫り熊資料館」の建物には、八雲が八雲となる前の「遊楽部(ユーラップ)」の時代、そして更に昔の旧石器・擦文時代から説き起こした歴史の中で、入植と開拓が丁寧に、ひときわ大きく取り上げられていました。

「冬の派閥」は大正中期、最初に入植した人びとがひとりまたひとりと生涯を終え、八雲の地で土に還っていくところで終わっていますが、現実の歴史は徳川農場による大規模な農業開発、炭鉱の採掘から、第二次大戦後の農地解放を経て八雲産業(株)となって以降の経過まで、多少展示説明が更新されていない部分はあるにせよ、朗読する私の基礎となるには必要にして十分なものでした。欧州から「農民美術」として輸入され、観光物産として爆発的に人気の出た木彫りの熊も含めて。

その資料館を出るとき、奇跡の1つめが。窓口に、最初にご挨拶した方とは別の眼鏡の男性がいらしたので声をかけ、今回の訪問の目的を話せば、その方、学芸員の大谷さんはなんと北名古屋市(旧西春町)のご出身で、かつて名古屋市鶴舞中央図書館にも、八雲への尾張藩入植の件で講演をしに来られたことがある、とのこと。まさかそんな方がここにいるなど思いもよらず、私と同じように引き寄せられたのか、ということも考えました。興奮しました。

城山本にも、その大谷さんにも教えられた入植時のリーダーのひとり「吉田知行(よしだともつら)」の足跡をたどり、八雲神社に詣り、明日の朗読の無事を祈って町役場方面へ、「ここを八雲と」の記念碑、そしてもうひとりのリーダー格「角田弟彦(つのだおとひこ)」の歌碑を確認しながら、雪を踏みしめて駅へ戻り、サランベ川の河口付近の海岸線にある「上陸地点の碑」に行きたくて、偶然止まっていたタクシーに乗り込みました。

「実は私名古屋から…八雲の入植のことを…」の私の言葉に運転手さん、「ああ、私ね、むかし蒲郡市で働いていたんですよ」

2つめの奇跡。蒲郡は名古屋からは離れますが愛知県、というより、徳川家のルーツである旧・三河国のど真ん中です。わずか3時間弱の八雲滞在で、2人も愛知県にゆかりある人に出会うとは。あまりの巡り合わせに気が遠くなりそうでした。

そうしてたどり着いた上陸記念碑は、噴火湾から吹いてくる風と、16時前というのに既に暮れかけている光に照らされていました。たぶんこの光景を、私は一生忘れないと思います。名前を聞きそびれた運転手さんにお礼を言いつつ、ふたたびスーパー北斗で19時過ぎに札幌に。宿で下読みを始めたら最後まで行き着かず寝入ったまま朝を迎えました。起きても一切外へ出ず下読みと当日使う事前の説明道具(スケッチブック)の作成に没頭し、15時過ぎに会場の「俊カフェ」へ。

文庫本で38ページ、時間にして70分超の朗読を、皆さんじっと我慢して聴いていただきました。全編にわたって拙い読みであったかもしれませんが、最後まで締めくくることができたのも、そのお客様、そして俊カフェの古川さんのお力添えによるものでした。遅くなりましたが、改めて深く御礼申し上げます。古川さん、皆様ありがとうございました!

その後、ささやかな打ち上げ兼忘年会へ。ここで、3つ目の奇跡が、というか記憶が戻ってきてそのまま口から垂れ流した結果、奇跡の存在に気付いたのでした。読むことへの興味のルーツを問われて、迷うことなく私はAMラジオの存在を挙げたのですが、そこに既に北海道は存在していました。ふるさと一宮市は愛知の端っこです。尾張とつく駅があるのに天気は美濃地方西部の予報が当たる街です。そこで育った私のラジオ体験はCBCも東海ラジオは勿論、岐阜放送(GBS)ラジオ、1431MHzとともにありました。ただし、名古屋の局と違い、GBSは午前0時半で毎日終わっていましたので、その後、ノイズに近い、でも声混じりの音が続きました。ダイアルを触ってみれば、すぐ隣の周波数で、ずーっと放送している局が。それが1440MHz、札幌STVラジオの電波だったのです。その後、看板番組「アタックヤング」にハマった私。

今回、それから30年の歳月を経て北海道と繋がることになるとは。少しだけ大きく捉えれば、昨年の「朗読会拓使」のことを考え出したときから、少しずつ、現在に向けて導かれていたのかも知れません。

夢だったアナウンサーにはなれませんでした。それを古川さんでしたか「ちょっとズレたんですね」と言われました。ちょっとズレてこれだけのものをこの年末3日間でいただけたのなら、それもよかったのではないのかな、と珍しく、自分で自分を納得させられた、とても収まりの良い夜でした。

かの地へ、ふたたび(12月28日)

「さて、もうこれで何もかもおしまいだ」
…と、青空のコンテスト後ゆっくり感慨にふけるような師走があるはずもなく、今年もバタバタの年末年始を過ごすことになりそうです。と、いうのも、5月の「俊読2019」以来、わずか7か月で再び札幌「俊カフェ」の古川さんにお誘いをいただき、ニシムラのひとり朗読が実現する運びとなったからです。

日時は12月28日午後、まさにド年末というべきところですが、2019年のうちにできればやりたいということは自分の方も考えていたことでもありました。昨年、北海道が北海道と命名されて150年の節目の年を迎え、さまざまなイベントが展開されました。昨年の「朗読会拓使」を札幌でやる、となった時、頭にあったのはそのことで、初めての土地で初めての人々と出会うということをタイトルにこめたのでした。

歴史をひもとけば、かつての愛知の人々もそうでした。1879年、尾張徳川家の当主として幕末と維新の乱世を歩み切った徳川慶勝(よしかつ)公が、居場所を失いつつあった旧藩士たちの生きるよすがとして用意したのが、現在の渡島(おしま)総合振興局二海(ふたみ)郡八雲(やくも)町の広大な原野でした。トップページの写真は、その八雲町の風景から切り取ったものです。

右も左も上も下も、厳しい冬も熊による食害も、何も知らない状態で飛び込んで以降、アイヌの人々の力を借りながら懸命に生き延びるしかなかった彼らの歩みを描いた、名古屋出身の小説の大家、城山三郎の歴史大作「冬の派閥(ふゆのはばつ)」を、彼らが八雲に居を定めて140年の節目となる今年のしめくくりに、狸小路の「俊カフェ」で読ませていただこうと思います。【(公財)日本文藝家協会許諾番号第250271号】

札幌のみなさま、道内のみなさま、普段は市内の劇場に尋常ならざるペースで現れる演劇好きのおっさんとしての姿しか知らない皆様にも、私のホームグラウンドはこちらです、と改めて申し上げたい。限定20名のお席です。ご予約は俊カフェ(☎011-211-0204)でも私まで直接( rodoku@afrowagen,net )でも結構です。お忙しい中かとは思いますが、ご来場をお待ち申し上げております。地図はこちらです。

なお、他にあと1本、何か読むかもしれません。何を読むかはこのエントリの中にヒントが隠れていますので探してみてくださいませ…。

5:55/札幌・俊読2019のために2

俊読2019を終えて、いろいろ済ませつつ先ほど自宅に帰り着きました。昨夜から今朝にかけてはまるで整理できていなかったのですが、今日、ここ1年と少しの間にお世話になった札幌の方々の間を歩くうちに整理できてきたような気がします。

日曜日の夜に狸小路・Fiestaで行われたあの3時間余り、満席の皆さんの前で、谷川俊太郎さんの詩を、ご本人も聞かれる中で読むという希有な機会であった以上に、自分にとっての大きな大きな「節目」が刻まれた日になりました、って、これまでの人生で何度でも言ってきたような気もするのですが、今回はほんとに違いました。あらかじめこうなるように用意されていたとしか思えないような。

1975年9月24日に私は愛知県一宮市の一宮市立市民病院で生まれました。時刻は午前5時55分でした、本来の出産予定日から2週間も遅れ、おとめ座からてんびん座へ、星座も変わってからこの世界に出てくることになりました。

今回の俊読をお聴きいただいた方も、言われなければ気付かれないことですので、あえて申し上げます。主催者のかたわれ、桑原滝弥さんには昨夜、打ち上げの席でぼそっと伝えました。

当日の予定をメールでもらって驚きました。私の今回の出番となる時間も、5時55分でした。

気がついたらいじめられっ子でした。身体が強くなければと、という親の意向で水泳に通いました。少年野球に入りました。補欠でした。中学で太ってきたら相撲に、そして入学した高校の放送部で朗読に出会いました。演劇に寄り道しながらまた朗読に戻ってきました。その曲折を、昨日という、未来のある時点であったあの場所で、最初から私は見透かされていたのかもしれません。

そういう意味で、私の歩みは昨日、5月26日にこれまでの人生で最も大きな節目を迎えた上で、振り出しに戻ったのかもしれません。つまり、43歳と8ヶ月と少しで、私は死んだのかもしれません。そしてその瞬間、同じ日同じ時間に、また生まれて新たな人生を歩み始めたのではないか、と。

この文章を書き始めて、断続的に2日目に入りました。本番の細かい内容などはこのまま、Facebookでご紹介しながら、続きはあちらで結ぼうと思います。よろしければ是非そちらもお読み下さい。

水の話/札幌・俊読2019のために1

「万物の起源は水である」

紀元前5世紀頃の、ターレスのこの言葉に出会ったのは確か、高校1年の倫理の授業で、ギリシア哲学の流れを概観する、みたいな時間の時でした。その時の担任の川村先生は当時目を悪くしていらして、常に眼帯をはめて授業をされていたのですが、当時は何を習ったということよりも、病気然としたそれが気になって、ほとんどすぐ忘れていたのでした。

その後大学から演劇を始めて最初の夏のサークル旅行、山梨県。富士急ハイランドにどんなものがあるとか盛り上がっている周りとは対照的に、ひたすら気が進まなかったんですよね。受験疲れというか、今より何百倍も繊細さの塊だった私は、毎日を生ける屍みたいにして過ごす、そういう状態だったので。今が信じられないほどに。

でもそこで出会ったのです。今でも強烈な印象を残している、ある画に。それは美術館や博物館や他のアトラクションによってではなく、湖面の水でした。

風が吹いたりやんだり、夕方でしたから光が差したり翳ったり、それらに絡みつくようになのかあおられるようになのか、一瞬間たりとも同じ形でとどめない、0コンマ何秒よりも細かい、それこそ刹那を重ねるように、三角から四角、楕円から二等辺、ひし形に平行四辺と変わってゆく水面を見るのが面白くて楽しくてしょうがなくて、それ以外の旅行の記憶が、今ではもう残っていないくらいなのです。ターレスの言葉を思い出したのはそれが初めてでした。

その後、劇団を始めてからも折に触れてその瞬間はあったのですが、今回「俊読」に参加するにあたり、久しぶりにそのことを思い出したのです。単純に、谷川俊太郎という、ここ50年の日本でもっとも重要な詩人であるその人の詩を読むことでステージに立つ、そのことは私自身が、どうして何かを表現したい、何かを読みたいと思うのかをまっすぐ問われることでもありました。単純に発声発音、うまく読もうとすることなどまるで問題にならない、これまでにない何かが必要だと。

今回、本番より1日早く道内に入ったのも、どこかでそれを確認しようと思っていたからでした。そのことはFacebookに取り急ぎまとめました。一緒に読んでいただければ有り難いです。

さあ、会場に向かいます。俊読2019、自分の出番は午後6時前の予定です。お目にかかれる方、どうぞよろしくお願いいたします。

初めてする話/「俊読2019」

この話は、人前では初めてする話です。そう言ってこれまでたくさんの人に嘘をついてきたわたしですから、きっと今度も信用してもらえないかもしれません。だけどできたら聞いてほしい。本当に、このしらせを聞いたときに蘇ってきた風景があるのです。そしてそれは、ずいぶん長い間、忘れていた風景でもあったことを。

だだっ広い学校の中にそびえる、理系の学部の物々しい建物に遠慮するように、押し込まれたようにそれはありました。すでに白みがかったひび割れの走る階段を登りきると、夕方には判読が不可能になる木製の看板がかかっていて、1階には事務所、床屋、印刷室、学園祭の実行委員会が並び、2階には大小さまざまな集会室がひしめき合っていました。そのほとんどの部屋を使って、今日はサンシュー、明日はヨンシュー、そうして20代の前半を芝居の稽古をして過ごしました。それぞれ、第3集会室、第4集会室の呼び名でした。

そのうち、稽古がなくてもその建物に足を運ぶようになりました。暇つぶしでした。同じことを考えていた者は自分以外にもいました。そして決まって落ち着くのは、1階の部屋を抜けたところにある空間でした。どこかのお古でもらってきたようなソファとテーブルが雑に並べられて、それぞれの場所に学生や、学生だった人や、たぶん学生だろうけどとてもじゃないが人相風体がそう見えない人までが混じり合っていた不思議な場所でした。そもそも私自身が「学生じゃない人」でした。その大学の学生でもないくせに入り浸っていたのです。

「俺は吟遊詩人になりたかったんだ」

いつものソファーでそんなことを口にしたのだから、聞いていた方はさぞびっくりしたと思います。笑うしかなかったと思います。でもその瞬間、自分の中で間違いなく何かが弾けたのでした。そのことだけは25年を経とうとしている今でも、はっきり覚えています。その「瞬間」を私の目の前で聞いていたのは、のちに一緒に劇団を旗揚げすることになる望月武志君と、その先輩の河合洋造さんでした。6月の平日のお昼前だったと思います。そんな余計なことまではっきりと覚えているくせに、その弾けた「何か」は今もって分からないままです。

昨年札幌でお届けした「朗読会拓使」がきっかけになり、「俊読2019」へお誘いをいただきました。ふたたび、札幌に伺います。2年連続で札幌で朗読ができる。この上ない喜びを感じています。 だけど、これを運命だとか奇蹟だとか言う気にはどうもなれないのです。ただあの時、その場所、名古屋大学北部学生会館第8集会室、通称「ダンワ」で出会ったあの火花と似たようなもの探す、ひさしぶりの時間を生きたいと思います。

主催の桑原滝弥さん、古川奈央さん、そしてもちろん谷川俊太郎さん。
どうぞよろしくお願いいたします!そしてこれまで札幌で知り合いになってくれた皆様、是非5月26日は会場でお目にかかりましょう!

「俊読2019」

  • 日 時 2019年5月26日(日)17時〜20時
  • 会 場 Cafe & Bar Fiesta(札幌市中央区南3条西1丁目3-3)
  • https://fiesta.owst.jp/